宮崎県都城市早鈴町、明治12年に早鈴大明神の跡地に建設されたのが都城島津邸。昭和10年には都城で行なわれた陸軍特別大演習のため、増改築しています(閑院宮載仁親王が宿泊)。さらに昭和47年には昭和天皇宿泊のため大改装が行なわれ非常階段の螺旋階段も増設されています。国の登録有形文化財。
明治維新後、都城島津家3代が暮らした邸宅
明治12年に、鹿児島へ移った都城島津家26代・島津久寛(しまづひさひろ)が都城に戻り、建てた邸宅が都城島津邸で、26代・久寛、27代・久家、28代・久厚の3代が暮らしています。
都城島津邸には本宅のほか、都城島津伝承館、慶応3年(1867年)築の剣道場(明治12年島津邸を建てた際に移築)、昭和5年築の石蔵、厩(うまや/農芸館)、昭和10年の陸軍特別大演習のために増設された御門、日本庭園などがあります。
併設の都城島津伝承館には、都城島津家、島津本家関連の史料を展示。
「島津氏発祥の地」と都城島津氏
万寿3年(1026年)、大宰府大監(だざいふたいげん=太宰府の四等官のうち判官)の平季基(たいらのすえもと)と弟・平良宗が島津院を中心に開発し、関白の藤原頼通(ふじわらのよりみち)に寄進したのが島津荘。
平安時代末、藤原忠実(ふじわらのただざね=関白・藤原師通の子)の時代に、薩摩・大隅・日向の半分以上を占める日本で最大の荘園へと発展します。
平安時代、九州南部は、日本最大級の荘園、島津荘が広がっていたのです。
鎌倉時代に島津荘の荘園管理に下司職(げすしき)に任命されたのが幕府御家人の惟宗忠久(これむねのただひさ)で、島津荘に土着し、守護・地頭職が置かれると、島津忠久が惣地頭職になり、島津氏を名乗ったのが島津氏の始まりです(都城が「島津氏発祥の地」といわれるゆえん)。
島津忠久は日向、大隅、薩摩3国の守護職にも任じられています。
島津氏4代の島津忠宗の子、島津資忠(しまづすけただ)は、南北朝の騒乱時に足利尊氏の与し、その褒美に北郷300町(現在の都城西部など)を与えられ、その子孫は北郷を名乗るようになったのです。
この北郷氏が都城島津氏のルーツで、日向国において勢力を伸ばしつつあった伊東氏の排除しながら、入植200年後の16世紀半ばにようやく都城盆地の統一を果たします。
伊東氏との対立から島津本家との関係を築き、豊臣政権家で北郷氏は島津本家の家臣的な位置づけにされ、さらに寛文3年(1663年)、島津本家から島津に戻すように命ぜられ、都城を治める島津氏ということで都城島津氏と称されるようになったのです。
幕末には公武合体と幕政改革を唱えて江戸に上る島津久光に代わり、京都の守護を都城島津家25代の島津久静が担っています(麻疹により京に到着後1週間で没し、死は秘されて家老が職務を遂行)。
島津久静の子、島津久寛(しまづひさひろ)は、戊辰戦争の功績で男爵になっています。
都城島津邸 | |
名称 | 都城島津邸/みやこのじょうしまづてい |
所在地 | 宮崎県都城市早鈴町18-5 |
関連HP | 都城島津邸公式ホームページ |
電車・バスで | JR西都城駅から徒歩20分 |
ドライブで | 宮崎自動車道都城ICから約9km。東九州自動車道末吉財部ICから約14km |
駐車場 | 45台/無料 |
問い合わせ | 都城島津邸 TEL:0986-23-2116/FAX:0986-36-4019 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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