聖徳太子の誕生地と伝えられる地に建つ古刹で聖徳太子建立七大寺のひとつが橘寺(たちばなでら)。正式名は仏頭山上宮皇院菩提寺(ぶっとうざんじょうぐうこういんぼだいじ)で本尊は聖徳太子と如意輪観音。聖徳太子の父、用明天皇の別宮「橘の宮」があった場所で、その宮殿を改造して造られた橘樹寺(たちばなのきてら)がルーツと伝わります。
田道間守が不老不死の果物「橘の実」を植えた地がここ
創建時には東西8丁(870m)、南北6丁(650m)に四天王寺式の伽藍配置で66棟の堂宇が建ち並んでいた壮大な寺だったと伝えられています。
発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面に、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明。
創建当初は尼寺であったと推定され、江戸時代に現在の天台宗、延暦寺の末寺となっています。
現在残されている堂宇は江戸時代のもの。
観音堂に安置される如意輪観音坐像は平安時代の作で国の重要文化財。
太子堂(本堂)に祀られる聖徳太子坐像も国の重要文化財です。
念仏写経研修道場として平成9年に再建された往生院には現代画家らが競作した260点の花の絵で飾られる格天井があるので、お見逃しなく。
念仏写経研修道場なので、もちろん、絵天井の下で写経もできます。
橘寺という寺名は、垂仁天皇(すいにんてんの)の命で不老不死の非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めて派遣された田道間守(たじまもり=菓子の神・菓祖)が持ち帰った橘の実を景行天皇(けいこうてんのう)がこの地に植えたことに由来。
ただし記紀に記されるまさに神代の話なので、史実なのかは定かでありません。
橘寺が用明天皇の別宮だったとすれば、宮殿はどこにあったのでしょう?
橿原市東池尻町で『日本書紀』や『万葉集』に記される「磐余池」(いわれいけ)の堤跡と大型建物の遺構が発見され、用明天皇の「磐余池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)」の跡ではないかともいわれていますが、今だ定かではありません。
飛鳥時代(7世紀)以前の宮殿の遺構はまだ確定されていないのです。
つまり、橘寺が聖徳太子誕生の地、そして用明天皇の別宮というのも、まだまだ伝承の域を出ない話なのです。
聖徳太子といえば法隆寺がまっ先に上げられ、法隆寺近くにも上宮跡と推測される遺跡が発見されています。古代文明に詳しい梅原猛氏は「太子の活躍地としては、法隆寺のある斑鳩(いかるが)より、この橘寺の地の方が似つかわしいと思う」と述べています。
その静かな山里の寺といった雰囲気が、聖徳太子ゆかりの地であることに似つかわしいと思う旅人が多く、絵になる寺としても注目されています。
橘寺 | |
名称 | 橘寺/たちばなでら Tachibana-dera Temple |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村橘532 |
関連HP | 明日香村公式ホームページ |
電車・バスで | 近鉄橿原神宮前駅、または、飛鳥駅から明日香周遊バスで川原、または、岡橋本下車徒歩3分 |
ドライブで | 京奈和自動車道橿原北ICから約10km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 橘寺 TEL:0744-54-2026 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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