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飛鳥宮跡

飛鳥宮跡

奈良県明日香村岡にある飛鳥時代の皇宮跡が、飛鳥宮跡(あすかきゅうせき )。7世紀半ばの皇極天皇の宮殿、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)などの複合遺跡のため、平成28年に飛鳥宮跡に改称。世界遺産を目指す「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産にもなっています。

蘇我入鹿はこの皇宮で暗殺された!

皇極天皇元年(642年)1月、女帝・皇極天皇は夫・舒明天皇(じょめいてんのう)の百済宮(くだらのみや)での崩御により即位し、9月19日、蘇我蝦夷(そがのえみし)に新宮殿建設を命じています。
これが飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿(そがのいるか)の首塚近くにある飛鳥宮跡がその場所。

最初の遣唐使を送った舒明天皇の百済宮は、現在の奈良県北葛城郡広陵町百済にあったとされていますが、どこにあったのかは定かでありません。

皇極天皇が遷都した古代の都、飛鳥板蓋宮は、皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に発生した乙巳の変(いっしのへん=飛鳥時代の政変、クーデター)で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり=藤原鎌足、藤原氏の祖)らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした場所です。
この政変の結果、大化の改新へと繋がり、天皇を中心とする律令国家が成立することに。

この乙巳の変で、皇極天皇は退位し、孝徳天皇(軽皇子が即位)となって、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや=現在の大阪市中央区にあった古代の都)に遷都しています。

白雉5年(654年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると、白雉6年(655年)初頭に皇極上皇は飛鳥板蓋宮に都を戻し、再度即位(重祚)し、斉明天皇となっています。
白雉6年(655年)末に飛鳥板蓋宮は火災に遭い、焼失、斉明天皇は川原宮(奈良県明日香村川原)へ遷っています。
皇極上皇が飛鳥板蓋宮に都を遷したのは、百済の度重なる新羅侵攻、唐と百済の対立など緊迫する朝鮮半島・中国情勢の情報が入り、海岸に近い難波宮を、国防の観点から避けたかったのかもしれません。

甘樫丘(あまかしのおか)の麓には、蘇我入鹿首塚もあり、丘東側の麓からは蘇我氏邸宅跡と目される遺跡も見つかってるので、あわせて見学を。

飛鳥宮跡は、630年の舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇(斉明天皇)の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮の総称で、同じ場所に造営されています。

現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のもの。

大化の改新は、飛鳥板蓋宮で始まった!

舒明天皇の崩御後、蘇我蝦夷ら蘇我氏の専横政治がさらに増長し、蘇我蝦夷とその子・蘇我入鹿は、自らの陵墓に庶民を動員するなどの政治の私物化も図り、643年12月16日(皇極天皇2年11月1日)、次期天皇に蘇我氏の血筋の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ=蘇我入鹿とはいとこ)を擁立しようと、対立候補の山背大兄王(やましろのおおえのおう=聖徳太子の子、蘇我入鹿とはいとこ)の斑鳩宮(いかるがのみや=聖徳太子が築いた宮殿)を攻撃。
山背大兄王は、再起を図って潜伏することもできましたが、混乱を避け、ついに斑鳩寺で自害(聖徳太子の血筋、上宮王家は滅亡)。

一連の事件後、中臣鎌足(なかとみのかまたり)は蘇我氏打倒の計画を進め、中大兄皇子に急接近。
645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日し、飛鳥板蓋宮の大極殿で三国の調の儀式が行なわれる際、蘇我入鹿は殺害され、蘇我蝦夷も自邸に火を放って自害しています。

翌年、皇極天皇は軽皇子へ譲位し、孝徳天皇の治世が始まりますが、一連のクーデターが大化の改新です。

西暦592年、推古天皇が飛鳥の豊浦宮で即位し、都が飛鳥・藤原京から平城京に遷る710年までの約120年間が歴史で学んだ飛鳥時代。
中国の律令制度を取り入れ、中央集権国家としての体制を築いた日本の基礎を固めた時代で、とくに飛鳥宮跡は、日本古代史上の多くの出来事の舞台となった貴重な場所です。

画像協力/世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会

飛鳥宮跡
名称 飛鳥宮跡/あすかきゅうせき
所在地 奈良県高市郡明日香村岡
関連HP 飛鳥観光協会公式ホームページ
ドライブで 西名阪自動車道郡山ICから約21km
問い合わせ 飛鳥観光協会 TEL:0744-54-3240
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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