日本各地で自生し、栽培されるニホンズイセン(Narcissus tazetta var. chinensis)。ニホンズイセンとはいうものの、実は中国から伝来したもの。それがなぜ、国内各地に自生し、はたまた日本三大水仙自生地(淡路島、越前海岸、南房総・鋸南町)なるものまで生まれたのか、その秘密に迫ります。
ニホンスイセンはどこからやって来た!?
ニホンスイセンと同様に中国原産といわれるヒガンバナ(彼岸花)はその研究も進み、
(1)中国大陸と陸続きだった地質時代に日本へ分布を広げたとみる「自然分布説」(ヒガンバナは種子がないのに山中まで生育するのは自然分布だからとする説)
(2)ヒガンバナの球根は2年以上室内に放置され乾燥しても枯死しないことから、海上を漂って漂着したという「海流漂着説」
などの説が出ています。
実は、水仙はヒガンバナ科。
ヒガンバナとニホンスイセンの伝来には共通点も見いだせます。
「日本の植物学の父」といわれる牧野富太郎博士(1862年〜1957年)はヒガンバナ科のスイセンを「海流漂着説」だと推測しました。
琉球諸島から九州・四国の沿岸に、本州では太平洋側は房総半島まで、日本海側では能登半島の富山湾まで、海辺近くの山地丘陵に野生状態で分布していることが海流で球根が運ばれたと考えた理由。
実際に伊豆の群生地では、その球根が浜辺に打ち上げられているというので「海流漂着説」には信憑性があります。
地中海原産という水仙が中国に伝来したのは、水仙が嫌う熱帯地方の海をプカプカと経由したとは考えにくいので、シルクロードを経て渡来したと考えるのが妥当なのです。
実は、水仙は万葉時代には日本になかった!?
では、日本にいつごろ、漂着したかといえば、これまた謎。
現在、水仙が自生する和歌山県白崎海岸は『万葉集』にも歌われる景勝地ですが、『万葉集』には白崎海岸の水仙は登場しません。
水仙が登場する文献は、室町時代の文安元年(1444年)編纂の国語辞書『下学集』(かがくしゅう)に「水仙華、俗名雪中華」と記されるのが初見。
江戸時代の文政年間に編纂された『古今要覧稿』(ここんようらんこう)には「安房国も暖気にて自生殊の外にこえたり」
と記されています。
つまりは、鎌倉時代から室町時代ころに日本に漂着または伝来し、江戸時代には房総でも自生していたことがわかるのです。
淡路島に咲く水仙は、実は和歌山・由良海岸から流れ着いたといわれています。
その和歌山県の由良にある興国寺は、心地覚心の開山ですが、この心地覚心は、建長元年(1249年)に宋(中国)渡って修行し、日本に金山寺味噌(ルーツは径山寺の味噌)を伝えているので、ひょっとすると水仙も心地覚心が・・・という推測もできます。
日本三大水仙群生地の水仙は自生!?
日本三大水仙群生地に数えられる淡路島、越前海岸、南房総・鋸南町は、なぜ群生地になったのでしょう!?
淡路島の黒岩水仙郷は、由良から流れ着いたと推測される水仙を地元の漁師が植えたものと伝えられています。
越前海岸は、もともとは自生でしたが、大正10年、梨子ヶ平(なしがだいら)の農家が名古屋に出荷して、本格的な栽培が始まったもの。
南房総も栽培の歴史は古く、幕末の安政年間(1854年~1860年)には、すでに房州から船で江戸に出荷され、武家屋敷や町家などに「元名(もとな=現・鋸南町元名)の花」として売られていました。
牧野富太郎博士は、
「房州(千葉県の南部)、相州(神奈川県の一部)、その他諸州の海辺地には、それが天然生のようになって生えている。これはもと人家に栽培してあったものが、いつのまにかその球根が脱出して、ついに野生になったもので、もとより日本の原産ではない」。
と明快に記しています。
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