八丁沖古戦場パーク

八丁沖古戦場パーク

かつての長岡城(現在のJR長岡駅周辺)の北東には、東西3km、南北5kmにもおよぶ広大な沼地が広がっていました。それが八丁沖(別名「八町沖」)。現在の地名でいえば大黒、百束、四ッ屋、富島、亀貝一帯。幕末の北越戊辰戦争の激戦地で、激戦跡(現・富島町)に、石碑と解説碑などが配される八丁沖古戦場パークが整備されています。

河井継之助のアイデアで、長岡城奪回の奇襲地

八丁沖も今ではのどかな稲作地帯に変わり、往時の沼地が想像もつきませんが、当時は魔物が棲むとの伝説も残る大湿地だったとか。
ゆえに長岡城北東の守りの要になっていたわけですが、明治元年・慶応4年5月19日(1868年7月8日)、北越戊辰戦争の際、新政府軍に、西の守りの要である信濃川西岸から攻められ城が落城。
その奪還を狙う長岡藩の軍事総督・河井継之助は、同年7月24日、起死回生のため、680名あまりで沼北側の百束から八丁沖の泥沼を6時間費やして渡り、7月25日未明、対岸の富島に上陸。
これが八丁沖の戦いで、奇襲に成功し、山県有朋(狂介)が指揮する新政府軍を撃退し、長岡城を奪還しています。
ただし、軍事力に勝る新政府軍は、早くも7月29日に長岡城を奪還、河井継之助も後に破傷風で死に至る被弾をし、歩行不能に。

この作戦の勲功者・鬼頭熊次郎の碑は長岡市富島町246の日光社に立っています。

浮世絵に見る 北越戊辰戦争と八丁沖

歌川芳盛の描いた『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』は、明治新政府への配慮から北越戊辰戦争を武田・上杉の戦いに見立てていますが、実際は長岡城の攻防戦。
右上に長岡城が描かれ、長岡城の左下に「八丁沼」の名で八丁沖が描かれています。

越後国信濃川武田上杉大合戦之図
越後国信濃川武田上杉大合戦之図
八丁沖古戦場パーク
名称八丁沖古戦場パーク/はっちょうおきこせんじょうぱーく
所在地新潟県長岡市富島町
関連HP長岡市公式ホームページ
ドライブで北陸自動車道中之島見附ICから約7.8km
駐車場5台/無料
問い合わせ長岡市観光企画課 TEL:0258-39-2344
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
榎峠古戦場パーク

榎峠古戦場パーク

新潟県長岡市南端の旧国道17号沿い、妙見堰近くにあり、小千谷市とも接するのが榎峠(えのきとうげ)。ここは明治元年・慶応4年(1868年)の北越戊辰戦争時、新政府軍と長岡藩軍(奥羽越列藩同盟)の攻防戦が行なわれた激戦地です。榎峠古戦場パークと

大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記念碑)

大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記念碑)

かつて八丁沖(八町沖)と呼ばれた広大な沼地の北西端にあたる、新潟県長岡市大黒町。ここが河井継之助率いる長岡藩軍と長州藩、薩摩藩を主力とする新政府軍の北越戊辰戦争の激戦地。現在ではその一角が大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記念碑)として整備され

長岡城本丸跡

長岡城本丸跡

JR長岡駅・大手口の駅前広場に立つ「長岡城本丸跡の碑」。もともと本丸は現在の長岡駅が建つ場所にありましたが、明治元年・慶応4年(1868年)、北越戊辰戦争のため焼失し、廃城に。その後、公園にもなりましたが明治31年6月16日、北越鉄道線長岡

長岡城二の丸跡(長岡城祉の碑)

JR長岡駅・大手口からのびる大手通り(国道351号)沿いの現「アオーレ長岡」の西側が、長岡城二の丸跡。この長岡城、もとは堀直竒(ほりなおより)が建設に着手。堀氏はその後、城の完成を見ずに村上藩へ移封され、代わって元和4年(1618年)、譜代

栄涼寺

栄涼寺

新潟県長岡市東神田にある浄土宗の寺が光輝山月照院栄涼寺。元和5年(1619年)、長岡藩に移封された牧野忠成により開かれたと伝えられますが、もとは牧野氏が三河国牛久保城主時代(牛久保城=現・愛知県豊川市牛久保)に創建されたもの。境内には司馬遼

北越戊辰戦争・西軍上陸の地

北越戊辰戦争・西軍上陸の地

明治元年・慶応4年(1868年)、現在の新潟県長岡市を主戦場にした北越戊辰戦争の際、5月19日の早朝に西軍(新政府軍=薩長連合軍)が奇襲攻撃で上陸したのが、長岡城の西、信濃川右岸の中島村(現・長岡市中島1丁目)。これが西軍上陸の地で、中島村

河井継之助記念館

河井継之助記念館

幕末の文政10年1月1日(1827年1月27日)、越後長岡藩の長岡城下(現・新潟県長岡市)に生まれ、その後の長岡藩を率いた河井継之助(かわいつぎのすけ)。父は120石の中級武士で、邸宅は御堀の外、神田橋門近くの現在の長岡市長町1丁目にありま

西福寺・維新の暁鐘

西福寺・維新の暁鐘

信濃川右岸、新潟県長岡市渡里町にある浄土真宗本願寺派の寺が西福寺。明治元年・慶応4年(1868年)に起こった北越戊辰戦争時、5月19日の早朝に西軍(新政府軍=薩長連合軍)が信濃川を強行渡河しましたが、その際、一藩士によって打ち鳴らされ、敵の

よく読まれている記事

こちらもどうぞ