有明海に臨む原城の北3kmほどの南島原市の山中にある中世の平山城の城跡が日野江城跡(ひのえじょうせき)。島原半島一帯を支配した領主・有馬氏の居城で、有馬貴純(ありまたかずみ)の城主時代の明応5年(1496年)には支城として原城を築いています。その後、日野江城は島原藩の藩庁にもなっています。
江戸時代初めには島原藩の藩庁に
有馬貴純の子、有馬晴純(ありまはるずみ)は勢力をさらに拡大させ、貿易を独占して肥前有馬氏の最盛期を生み出しています。
天文19年(1550年)にはポルトガルとの南蛮貿易でさらに発展しますが、キリスト教が広まることを恐れて厳しい宗教弾圧を行なっています。
有馬晴純の子、有馬義貞は父とは異なり、南蛮貿易の利益という点も考慮してキリスト教に入信。
さらにその子、日野江藩初代藩主の有馬晴信(ありまはるのぶ)は、キリシタン大名になっています。
ルイス・フロイスも驚嘆した絢爛豪華な城だった!
ルイス・フロイスが記したイエズス会の日本年報に、キリシタン大名・有馬晴信が石垣や階段を造り、天正18年(1590年)に建物を改築したこと、そして「この建物の美しく雅やかなたたずまいを一同は気に入った。大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は最近、有馬晴信の手で建てられ、見事な出来ばえとなった城郭のなかにある。その城郭を見たポルトガル人たちは、日本にこれほど壮麗な建造物があるなど考えても見なかった」と記されています。
この記録は1590年10月12日付。
つまり、帰国した『天正遣欧少年使節』やアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano=天正遣欧少年使節派遣を計画・実施、この後、聚楽第で豊臣秀吉に謁見)を城に迎え入れた際のもの。
この時、ローマ教皇から有馬晴信に、黄金の十字架が贈られています。
ルイス・フロイスの記述も、いかに有馬氏が南蛮貿易で栄えたかの記録といえるでしょう。
日野江城の階段遺構は、100m以上に及ぶ直線的なもので、大手と推定される所から本丸下まで一挙に駆け上がる信長の安土城に類似したスタイル。
イスパニア商人で『日本王国記』の著者アビラ・ヒロンの文禄4年(1595年)の記録には庭園や茶室もあったことが記されています。
一国一城令で廃城となり、藩庁を島原城に譲る
発掘調査では金箔瓦も出土しており、幕府との密接な関係がうかがい知ることができます。
岡本大八事件で有馬晴信は失脚し、その子・有馬直純(ありまなおずみ)も日向延岡藩に転封となって、元和2年(1616年)に松倉重政が入城後は、島原城(森岳城)を建設。
慶長20年6月13日(1615年8月7日)の一国一城令によって日野江城と原城は廃城となっています。
日野江公民館の北側、南北に連なる細長い丘陵の先端部の標高78m付近を本丸とし、東に二の丸と大手口、西に三の丸を配した平山城。
本丸の北の堀、東側には大手川(大手門)、西側には浦口川(浦口=搦手門)、南には有間川が流れる天然の要害です。
当時は海に近く、海から昇る日の出を拝み、海に反射する日差しが輝く「日の入江」の名にふさわしい名城だったと推測できます。
城の西側(浦口)には日本で最も早い時期にイエズス会の中等教育機関として設立された有馬のセミナリヨ跡(推定地)があります。
ここから4人の『天正遣欧少年使節』が選ばれています。
南有馬市のキルスト教の歴史は、有馬キリシタン遺産記念館で紹介されています。
日野江城跡は日本キリスト教史における初期の中心地として、国の史跡に。
日野江城跡 | |
名称 | 日野江城跡/ひのえじょうせき Hinoe-jo Castle |
所在地 | 長崎県南島原市北有馬町戊谷川名 |
関連HP | 南島原ひまわり観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 口之津港から島鉄バスで日野江城入口、または、田平下車、徒歩15分 |
ドライブで | 長崎自動車道諫早ICから約49km |
駐車場 | あり |
問い合わせ | 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター TEL:095-823-7650/FAX:095-895-9690 |
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