長崎県佐世保市三川内町にある近世の三川内焼(みかわちやき)の陶祖とされる如猿(じょえん)が祀られる神社が陶祖神社。如猿とは、今村三之丞(いまむらさんのじょう)の子、今村弥次兵衛のこと。今村弥次兵衛は、天草陶石と江上・三ツ岳の網代土を調合して、素晴らしい白磁を焼成しています
磁器の技術を確立した今村弥次兵衛を祀る社
豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した朝鮮の役で、出兵した諸大名は、本国に戻る際に、陶工などの技術者を連れ帰り、九州各地に窯場が開かれています。
三川内焼の発展に大きな影響を及ぼしたのは高麗媼(こうらいばば)、巨関(こせき)というふたりの朝鮮人陶工です。
巨関は、当初、平戸島中野村の中野窯で焼物を焼いていましたが、良質の陶土に恵まれなかったため、息子の今村三之丞とともに平戸藩内を転々とし、ついに寛永14年(1637年)、三川内にたどり着きます。
今村三之丞の磁器製造は、平戸藩も認めるものとなり、寛永18年(1641年)、初代の皿山棟梁(平戸藩御用窯の棟梁)兼代官に任命しています。
ちょうど、陶器から磁器への大転換期にあたり、今村三之丞の子、今村弥次兵衛は、磁器技術を確立、幕府への献上品、薄手の高級品を焼成するなど三川内焼を大成させています。
明暦の大火で江戸城本丸が焼失すると、幕府は全国の諸藩に御道具の献上を命じていますが、平戸藩は、全国で唯一、磁器の皿300枚を納めています。
三川内焼が磁器の技術を確立するのは寛永18年(1641年)前後。
有田焼に遅れること30年ですが、佐賀藩が有田焼の技術を秘匿したこと、平戸藩では自前で白磁鉱が供給できなかったことが要因です。
今村三之丞が寛永10年(1633年)、針尾の三ツ岳の網代土(白磁鉱)を発見し、さらに寛永14年(1637年)、佐賀藩が朝鮮陶工保護のため、有田の日本人陶工を追放することで技術が三川内に伝わり、ついに磁器が完成するのです。
如猿(じょえん)というのが、三川内焼を大成させた今村弥次兵衛に対して平戸藩が与えた称号というのも頷けます。
そんな歴史を背景に、陶祖神社は代々、平戸藩御用窯(御細工所)の棟梁を勤めた今村家の先祖を祀る神社になっているのです。
もうひとりの陶祖、高麗媼は、三川内皿山の氏神である天満宮の境内社、釜山神社に祀られています。
陶祖神社 | |
名称 | 陶祖神社/とうそじんじゃ |
所在地 | 長崎県佐世保市三川内町 |
電車・バスで | JR三河内駅から徒歩30分 |
ドライブで | 西九州自動車道佐世保三川内ICから約6km |
問い合わせ | 佐世保観光情報センター TEL:0956-22-6630 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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