北条早雲が大改修! 藤沢市に残る中世の城館「大庭城」とは!?

大庭城

神奈川県藤沢市を走る国道1号(新湘南バイパス)。その北側に広がる舌状台地上が、中世の平山城、大庭城(おおばじょう)の遺構。大庭城址公園として整備されていますが、近年の調査で、その重要性が認識され、令和3年、「大庭城跡」として藤沢市の史跡に指定されています。

周囲は沼や湿地で、北条早雲も攻めあぐねた城

大庭城
舌状台地の上に築かれた大庭城

平安時代には一帯は、大庭御厨(おおばみくりや)と称して広大な神宮(伊勢神宮)の寄進型荘園だった地(範囲は現在の藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域)。
御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)で神宮への神饌を調進する場所でした。

もともとは、相模国鎌倉を領有した平景正(たいらのかげまさ/鎌倉景正)が開発し、神宮に寄進した御厨でしたが、天養元年(1144年)9月、源義朝(みなもとのよしとも=頼朝、義経の父)の大庭御厨濫行事件(大庭御厨乱入事件)など、徐々に源氏の支配下に移りますが、鎌倉時代には相模国最大の御厨に発展しています。

大庭城は、神宮に荘園(御厨)を寄進した平景正(鎌倉景正)が大庭氏を名乗って大庭景宗(おおば かげむね)が築城(大庭城は、大庭御厨が消滅した後の築城です)。

大庭氏は、石橋山の戦いでは伊豆で決起した源頼朝に勝利しますが、真鶴から房総に逃げ、再起を図った頼朝との和田合戦に敗れて、筑後国(現・福岡県)に落ち延びています。

後に、扇谷上杉氏の領有する城館となり、家臣の太田道灌(おおたどうかん/初期の江戸城を築城)が大庭城を修築していますが、永正9年(1512年)夏、駿河、伊豆を平定し、相模統一を目指す北条早雲の手で落城となり、北条早雲が大改修しています。

この時、北条早雲の大軍も湿地や沼に囲まれた大庭城をどう攻め落とすのか、北条早雲も考えあぐねたと伝えられています。

以降は、小田原を拠点とする後北条氏の前線として機能しますが、豊臣秀吉の小田原攻めで落城。
その後、いつ廃城になったのかは、よくわかっていません。

これまでの発掘調査では、掘立柱建物、空壕、土塁などの遺構が見つかっており、相模国では貴重な平山城ということが判明しています。
平成29年には燃えて炭化した米も発見され、分析の結果15世紀中頃〜16世紀初頭に燃えて炭化したことが判明。
永正9年(1512年)の北条早雲の攻撃時に焼かれてしまった兵糧米かとも推測されています。

見逃しがちな平山城ですが、相模国内の攻防など、ドラマチックな歴史を今に伝えています。

大庭城
空壕の遺構
大庭城
城跡は公園化され、散策に絶好
北条早雲が大改修! 藤沢市に残る中世の城館「大庭城」とは!?
名称 大庭城址公園/おおばじょうしこうえん
所在地 神奈川県藤沢市大庭城山5230-1
関連HP 藤沢市公式ホームページ
電車・バスで JR辻堂駅から神奈川中央交通バスで9分、舟地蔵下車、徒歩3分
駐車場 31台/無料
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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