関東で初めて古墳が築かれたのはどこで、いつ頃でしょう。実は古墳時代の始まり(古墳出現期)の3世紀中頃、現在の千葉県市原市に神門5号墳(ごうどごごうふん)が築かれていて、これが関東における古墳時代の始まり。時代は連合国家「ヤマト王権」誕生以前、邪馬台国の時代です。
弥生時代終末期には前方後円墳が築かれていた!?
邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓とも目される奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん/墳丘長278mの巨大な前方後円墳)が築かれたのが3世紀中頃〜後半。
箸墓古墳と同じ纒向古墳群(まきむくこふんぐん)にあり、最古の前方後円墳ともいわれる纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)が3世紀初頭の築造と推測されているので、同時期に神門5号墳が築かれていることがわかります。
神門5号墳が属する神門古墳群では、5号墳のほか、3号墳、4号墳も前方後円墳誕生期の「纒向型前方後円墳」と捉えることができるので、まさに邪馬台国時代ということになります。
神門5号墳は、当初は大型円墳と考えられていましたが、昭和56年、昭和59年の調査で、直径30~32.5mの円形の墳丘の西側に長さ12mほどの前方部が付属することが判明、墳丘長42.6mで、しかも定型化された前方後円墳に移行する以前の、畿内の出現期古墳にも通じる過渡的な様相を呈していることがわかったのです。
つまり神門古墳群の3号墳、4号墳、そしてもっとも古い築造の5号墳は、古墳時代で最も初期のもので、千葉県はもとより東日本で最古の古墳と判明。
近畿・東海・北陸地方の系譜をもつ土器が数多く出土したことからも、市原の地に古墳が築かれた理由がおぼろげながらもわかってきたのです。
古墳のある市原市惣社は、平安時代に国司の国内神社参拝を簡略化するために、国内の祭神を合祀して国府近くに創建された総社に由来する地名。
上総国分寺なども近くにあることから、古代、上総国の中心地だったことがわかります。
市原市には弥生時代後期の竪穴住居跡が検出されている坊作遺跡(ぼうさくいせき)など、古代の集落(ムラ)や遺跡が出土しており、かなり早くから稲作が行なわれ、邪馬台国の時代には、ムラがクニへと発展していたのではと推測できます。
以前には関東地方の前方後円墳の出現は、近畿で箸墓古墳などが築かれた3世紀中頃よりも半世紀以上遅れ、4世紀前半とみるのが定説でしたが、神門古墳群の調査から、弥生時代終末期には出現期の前方後円墳が築かれていることも明らかとなり、定説を揺るがす事態となったのです。
神門3号墳から出土の手焙形土器(てあぶりがたどき)は、地元の土を使いながら、デザインは近江国(滋賀県)あたりがルーツとされ、一緒に出土した土器も、近畿地方や東海地方のデザインとされるものがあるため、土器を焼く職人が渡ってきたのか、はたまた、デザインだけが伝来したのか、歴史ロマンは広がっていきます。
東京湾を起点とした古代人の海上交通、交易は、想像以上に広範囲に広がっていたのでしょう。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の房総半島上陸伝説なども、こうした海上交流が生んだともいえるのです。
また、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるなら、神門古墳群に眠る首長たちは、卑弥呼との交流があったことに!
関東最古の古墳は「邪馬台国」時代の築造で、千葉県市原市に! | |
所在地 | 千葉県市原市惣社5-1-1 |
場所 | 神門5号墳 |
電車・バスで | 小湊鉄道上総村上駅徒歩20分 |
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