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シムクガマ

シムクガマ

沖縄県中頭郡読谷村(よみたんそん)波平、座喜味城(ざきみぐすく)の西にある全長2570mの鍾乳洞が、シムクガマ。沖縄戦の際に、波平地域の住民1000人が洞窟内に逃げ込み、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の説得を受け、全避難者がアメリカ軍へ投降し、生き延びた洞窟です。

沖縄戦で1000人の命を救った鍾乳洞

シム(下)ク(向く)ガマ(洞窟)で、谷下の洞窟というのが名の由来。
沖縄本島には隆起サンゴ礁の石灰岩台地の随所にガマと称される鍾乳洞が口を開けていますが、沖縄戦の戦火を逃れ(読谷村はアメリカ軍上陸の地)、多くの住民がその洞内に避難しています。
アメリカ軍が迫ると、皇民化教育と軍国主義教育を受け、捕虜になるのは恥と教えられた住民は、手榴弾などで自決するという悲惨な事件も多数生まれていますが(日本軍によって壕から追い出されて亡くなった人、いわゆる集団自決を強要された人たちもいました/沖縄市役所の解説)、昭和20年4月1日、シムクガマではハワイ帰りの比嘉平治と比嘉平三が「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と混乱する洞内の人々を説得。
ついに投降へと導き、1000人余の命を救っています。

シムクガマには団長は銃を手にする元日本兵という警防団の本部が設置されていたため(招集を逃れた少年が団員)、眼前のアメリカ軍へ竹槍を持っての特攻作戦を敢行する直前、比嘉平治と比嘉平三が住民を説得という、危機一髪の状況でした。
竹槍で特攻しようとする警防団を、平治さんが諌め、平三さんはガマには日本兵がいないことをアメリカ軍に説明したのです。

洞口の石碑には「救命洞窟之碑」、「ハワイ帰りの故比嘉平治氏、比嘉平三氏によって救われた」と刻まれており、比嘉平治と比嘉平三の功績をたたえる内容に(地域の住民の多くは、「私が生きているのは2人のおかげ」と語っています)。

シムクガマを見学の際は、ガマ内に川の水が流れ込んでおり、足場が悪いため、運動靴などのしっかりとした靴、懐中電灯、軍手が必要。
雨天の際は増水する恐れがあるほか、草むら周辺では、ハブに注意が必要です。

シムクガマの北西にあるチビチリガマは、同じ4月1日、上陸した米兵に竹槍で突撃し2人が重傷を負い、さらに「自決」を口にした住民が着物や布団に火を放つなど大混乱(火災は消火されました)。

昭和20年4月2日、再び米兵が姿を見せると、鬼畜(きちく)と教えられたアメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れて、毒薬で命を絶ったり、自ら親や子を手にかけたりと肉親相互が殺しあうという集団自決が発生。
避難者約140人のうち、無辜(むこ)の住民83人(そのうち6割は18歳以下の子供)が非業の死を遂げています(2人は米兵の狙撃による犠牲者)。
チビチリガマに避難した住民のなかに軍部の影響を受けた元兵士や元従軍看護婦がいたため、その判断を信じた住民たちが自決を選んだと推測されていますが、生きるも死ぬも紙一重だった沖縄戦の住民の受けた苦渋を物語っています。

こうした悲惨な歴史を背景に、現在、チビチリガマへ入壕することは遺族会の意思により禁止されています。

シムクガマ
名称 シムクガマ/しむくがま
所在地 沖縄県中頭郡読谷村波平438
関連HP 読谷村観光協会公式ホームページ
ドライブで 沖縄自動車道石川ICから約14km
問い合わせ 読谷村波平公民館 TEL:098-958-2229
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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