大阪府池田市城山町にある中世の城跡を公園化したのが池田城跡公園。室町時代から戦国時代にかけて旧豊島郡(現池田、豊中、箕面市周辺)を支配していた池田城主・池田氏の居城跡を整備して歴史公園としたもの。池田市で唯一の池泉回遊式庭園も整備され、城郭風の展望休憩舎が建つほか、往時の礎石などが保存されています。
中世の城跡を整備した歴史公園
中心施設は、大阪平野や新猪名川大橋(通称ビッグハープ)を見渡す櫓風の2階建て展望休憩舎で、その周囲に、日本庭園や茶室、遺構復元ゾーンが配されています。
枯山水、井戸、虎口などは平成元年から4年をかけた発掘調査で復元された遺構。
漆喰塀、櫓風の展望休憩舎などのデザインは史実には基づいておらず、イメージ的な演出とのこと。
日本庭園は、深山の景、野の景、海の景の3つの修景で構成され、南門側には花菖蒲園も整備されています。
また管理棟では池田の歴史ビデオも放映されています。
土日曜、祝日には、公園内に観光ボランティアガイドが待機。
池田城は、中世に摂津の要地として注目されていた!
池田城は、建武元年(1334年)頃、五月山南麓の丘陵地に、摂津豊島の地頭職だった池田教依が城館を築いたのが始まり。
時の摂津守護は楠木正成で(池田教依は楠木正成の嫡男・楠木正行の遺児・教正を引き取って育て、池田氏の惣領としています=諸説あり定かでありません)、後に池田教依は足利尊氏から本領安堵を受け、以降、代々池田氏が城主を務めています。
というわけで、池田城は、全国の45万人(23位)という池田さんのルーツのひとつ。
池田城は五月山の南麓の東西に延びる尾根を利用し、畿内でも屈指の規模を誇った中世の城郭です。
主郭の中には、枯山水風の庭園が築かれていたこともわかっています。
応仁の乱では東軍に属し、文明元年(1469年)、西軍の大内政弘軍に攻められています。
永正5年(1508年)の細川氏の内紛で、細川高国の攻撃を受けて落城。
さらに享禄4年(1531年)の大物崩れ、天文2年(1533年)、享禄・天文の乱の舞台にもなっています。
永禄11年(1568年)、城主・池田勝正は織田信長軍の攻撃を受け落城しますが、池田勝正は信長の家臣となっています。
この時、信長流の築城術を取り入れ、虎口などを整備し、城域を拡張しています。
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、池田家は「五畿内においてもっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた」と記しています。
その後、池田氏の内紛で荒木村重が城主となり、新たに伊丹城を居城としたため、池田城は廃城になっています。
池田城跡公園 | |
名称 | 池田城跡公園/いけだしろあとこうえん |
所在地 | 大阪府池田市城山町3-46 |
関連HP | 池田市公式ホームページ |
電車・バスで | 阪急池田駅から徒歩10分 |
ドライブで | 阪神高速道路池田線川西小花ランプから約1km |
駐車場 | 五月山緑地駐車場(有料)を利用 |
問い合わせ | 池田城跡公園管理棟 TEL:072-753-2767 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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