飯盛山城

飯盛山城

大阪府大東市(だいとうし)と四條畷市(しじょうなわてし)の境、標高315.9mの飯盛山に築かれた中世の山城が飯盛山城(いいもりやまじょう/大東市では飯盛城と称しています)。京や大坂を抑え、大和への進軍も可能な飯盛山城は、一時天下人となった三好長慶の居城ともなりました。「続日本100名城」にも選定。

永禄3年(1560年)頃に大規模な修築が行なわれている!

飯盛山城
飯盛山山上にある本曲輪

天文年間(1532年〜1555年)、河内・山城の守護の畠山義堯(はたけやまよしたか)が家臣・木沢長政に命じて飯盛山に城郭を築いたのが始まり。

その後、主従関係が崩れ、享禄4年(1531)8月には主君・畠山義堯が木沢長政の居城である飯盛城を攻めるという飯盛城の戦いが起こり、第34代室町幕府管領・細川晴元が木沢長政を支援し、さらに山科本願寺の法主証如に一揆軍の蜂起を要請したため、摂津・河内・和泉の本願寺門徒3万の軍勢が飯盛山を包囲する畠山義堯軍を攻め、ついに畠山義堯は自刃に追いやられてしまいます。

その後、木沢長政も太平寺の戦いで父の仇であった三好長慶(みよしながよし)に討ち取られています。
永禄3年(1560年)、三好長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移し、大規模な修築を施しています。
三好長慶は、足利幕府の弱体化を背景に、細川政権を崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝を京より近江へと追放し、三好政権を樹立しています。
つまり、織田信長以前の天下人は、三好長慶でその中心がこの飯盛山城だったというわけなのです。
戦国時代の束の間、ここが日本の中心として機能していたのです。

三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治め、さらに織田信長が台頭すると、畠山秋高が城主となりますが遊佐信教の反乱によって畠山秋高が殺害され、さらに遊佐信教の謀反を織田信長が鎮圧してついに飯盛山城は廃城となっています。

本曲輪には山城としては珍しく石垣が組まれているため、織田信長は廃城にせず、石垣を組んで修築したのではとの指摘があります。

JR四条畷駅を起点に、四條畷神社から飯盛山山頂を目指すと徒歩1時間40分。
JR野崎駅から野崎観音を経由して登る「七曲コース」なら、徒歩1時間30分で山頂。
山麓の北条神社からの登山ルートは最短コースで所要50分。

飯盛山城
名称 飯盛山城/いいもりやまじょう
所在地 大阪府大東市・四條畷市
関連HP 大東市公式ホームページ
四條畷市公式ホームページ
駐車場 なし/野崎駅・四条畷駅周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 大東市生涯学習部生涯学習課 TEL:072-870-9105
四条畷市教育部生涯学習推進課 TEL:072-877-2121
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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