高校野球発祥の地碑

高校野球発祥の地碑

大阪府豊中市玉井町3丁目、高校野球発祥の地記念公園の西エリアにあるのが、高校野球発祥の地碑。大正4年、第1回の大会が行なわれた豊中グラウンドの跡地が公園になったもので、門柱を再現したメインエントランスを入ったレンガウォールに豊中グラウンドの解説板・平面図を設置しています。

「夏の甲子園」、実は第1回は豊中で開催!

高校野球発祥の地碑
『第1回全国中等学校優勝野球大会』で始球式を行なう朝日新聞社・村山龍平社長

夏の甲子園で知られる「全国高等学校野球選手権大会」の前身となる「全国中等学校優勝野球大会」(戦前の旧制中学校は、現在の高校にあたります)は、大正4年、大阪府豊能郡豊中村(現・豊中市玉井町3丁目)に、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が建設した豊中グランド(大正2年完成)で行なわれています。

豊中グランドは、1塁・3塁側に700名~800名収容の15段木製スタンドがあり、外野は低いレンガ塀の内側を土盛りにして見物席となっていて、当時、日本一の設備を誇る多目的グラウンドでした。
グランドの杮落し(こけらおとし)となる試合は、大正2年6月21日〜22日に行なわれた慶應義塾大学対米国・スタンフォード大学の対抗試合(東京で5試合、名古屋で1試合を行ない3勝3敗の五分で豊中に)で3万人の大観衆(主催者発表)を集めました。
大正2年6月・10月には「日米大学野球戦」、さらには日本初の陸上大会である「日本オリンピック大会」という大きなイベントも行なわれています。
まだ野球というスポーツが珍しい時代で(東京六大学リーグもまだなく、大正3年、早慶明の三大学でリーグ戦を開始)、せっかくのグランドも宝の持ち腐れでした。

そんな時代と状況を背景に、箕面有馬電気軌道の営業担当・吉岡重三郎(よしおかじゅうさぶろう=大阪高等商業学校在学時代は野球部で捕手を経験)が豊中グランドを活用する相談で記者の大阪朝日新聞・田村木国(たむらもっこく)を訪ねたところ、当時人気が高まっりつつあった中等学校野球の全国大会を提案されます。
当時、大阪朝日新聞(現・朝日新聞大阪本社)は、大阪毎日新聞(現・毎日新聞大阪本社)と熾烈な拡販競争を展開、大阪朝日新聞の上司も大会の開催にGOサインを出して、「全国中等学校優勝野球大会」が実現したのです。

大正4年8月18日〜8月23日に「第1回全国中等学校優勝野球大会」が豊中グランドで開催され、春に「武侠世界社」主催の東京都下大会で優勝した早稲田実(現・早稲田実業学校)、それに加えて東北(秋田中=秋田県立秋田高等学校)、東海(三重四中=三重県立宇治山田高等学校)、京津(京都二中=京都府立鳥羽高等学校)、関西(和歌山中=和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)、兵庫(神戸二中=兵庫県立兵庫高等学校)、山陽(広島中=広島県立広島国泰寺高等学校)、山陰(鳥取中=鳥取県立鳥取西高等学校)、四国(高松中=香川県立高松高等学校)、九州(久留米商=久留米市立久留米商業高等学校)の9地区での予選を勝ち抜いた9校の計10校が代表となって(予選自体が行なわれないエリアがあったほか、北海道は不参加)、8月23日の決勝戦は秋田中対京都二中の組み合わせに。

秋田中(現・秋田県立秋田高等学校)が7対2で京都二中を下し、初優勝を飾っています。

豊中グランドが手狭になり第3回大会からは、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)の鳴尾球場(鳴尾競馬場とトラック内に築かれた野球場)に移され、さらに第10回大会から、同じ鳴尾村の枝川と申川(さるがわ)の埋立地に完成した新球場(大正13年完成/現・阪神甲子園球場)で開催されています。

ちなみに、豊中グランドでは、大正7年には「第1回日本フートボール優勝大会」(現在の全国高校ラグビー大会)が行なわれてるので、全国高校ラグビー大会発祥の地でもあるのです。

高校野球発祥の地碑
名称 高校野球発祥の地碑/こうこうやきゅうはっしょうのちひ
所在地 大阪府豊中市玉井町3−2
関連HP 豊中市公式ホームページ
電車・バスで 阪急電鉄豊中駅から徒歩5分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 豊中市広報戦略課 TEL:06-6858-2028/FAX:06-6842-2810
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
高校野球発祥の地記念公園

高校野球発祥の地記念公園

大阪府豊中市にあるのが高校野球発祥の地記念公園。夏の甲子園で知られる全国高等学校野球選手権大会の前身である全国中等学校優勝野球大会の第1回大会は、大正4年8月18日〜8月23日に、豊中運動場(豊中グラウンド)で開催。その跡地を公園として整備

日本野球発祥の地碑

日本野球発祥の地碑

東京都千代田区神田錦町3丁目、学士会館の敷地内に立つのが、日本野球発祥の地碑。平成15年に建立されたモニュメントで、明治5年、第一大学区第一番中学(現在の東京大学)で教鞭をとったアメリカ人教師のホーレス・ウィルソン(Horace Wilso

 

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