楠葉台場

楠葉台場

大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目、淀川左岸に幕末の慶応元年(1865年)に完成した、異国船打ち払い用の西洋式稜堡式砲台が、楠葉台場(くずはだいば)。平成17年に古文書から場所が特定され、発掘調査後に、国の史跡に。現在は楠葉台場跡史跡公園として保存整備され、見学が可能です。

海から離れた珍しい内陸部に築かれた京を守る台場

嘉永7年(1854年)、日露和親条約締結交渉のためロシアのエフィム・プチャーチンが乗艦するフリゲート艦「ディアナ号」(江戸に向かう途中、下田港で安政東海地震による津波に遭遇して大破、西伊豆で沈没)が大坂湾(大阪湾)に来航。
文久3年(1863年)、京都守護職の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は当時、淀川舟運で結ばれた京への影響を考え、異国の軍艦が淀川に入った際の対応策として、淀川の両岸に台場を建築することを建白、徳川幕府・勝海舟(かつかいしゅう)が奉行となって、淀川右岸に高浜台場(大阪府三島郡島本町高浜1丁目)、左岸に楠葉台場、さらに上流部に梶原台場(高槻市梶原3丁目)を構築。

箱館(現・函館)の五稜郭などと同様の西洋式の稜堡式砲台(星形要塞)ですが、南側から攻め上ってくる軍船にのみ対応すればいいので、南に向けた稜堡式の要塞(南側土塁にのみ稜堡式を採り入れた設計)です。

慶応4年1月3日(1868年1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、楠葉台場には旧幕府に与した小浜藩が、高浜台場、梶原台場に津藩が詰めていましたが、津藩が幕府方を裏切り旧幕府軍に新式四斤山砲での砲撃を行ない、新政府軍が淀川左岸へと侵入したため、総崩れとなって退却しています。
実戦で使われたのは皮肉にもこの国内戦のみで、しかも陸路、京側から攻められた場合を想定しない要塞のため、あまり役に立つことはありませんでした。

要塞としての広さは3.8haで、甲子園球場(3.85ha)とほぼ同じです。
簡易な堀などで囲まれ、大砲3門を置く台座、火薬庫が築かれていました。
隣接して淀川の通航監視のため船番所も築かれ、淀川を遡る船にも睨みを効かせ、京街道を台場に取り込み関所としていました。
このことから、実際には長州藩などを監視するのが目的のひとつだったとも推測できます。
幕末の軍事を知る上で貴重な存在のため、国の史跡になっています。

西日本で現存する稜堡式砲台(星形要塞)は、和田岬砲台(兵庫県神戸市)と楠葉台場のみです。

楠葉台場
名称 楠葉台場/くずはだいばあと
所在地 大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目
関連HP 枚方市公式ホームページ
電車・バスで 京阪電車橋本駅から徒歩15分
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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