最後の大坂城の天守(大阪城天守閣)は、徳川時代の寛永3年(1626年)に完成しましたが、寛文5年(1665年)、落雷により焼失し、以降、江戸時代に天守は存在しませんでした。大阪城のシンボルとして、当時陸軍が駐屯していた大阪城本丸跡に昭和6年11月7日に再建されています。
近代建築による復興天守の先駆け、内部が博物館なのも最初
近世には天守が存在意義を失ったこともあり、大坂城の中心は御殿(現在の大阪城天守閣前の広場にありました)に移ったこともあり、400年以上も天守閣が存在しなかった大阪城ですが、昭和3年、当時の市長、関一(せきはじめ)が天守閣復興を提案し、議会で承認されました。
実は、関一は、母校である東京高等商業学校(現・一橋大学)の教授で、都市政策研究の先駆者。
大正3年から大阪市助役に転身し、大正12年から11年余、大阪市長を務め(官選市長)、市長時代には大阪港の整備、大阪市営バス(現・大阪シティバス)事業、地下鉄の建設(現・Osaka Metro御堂筋線)、市営公園や公営住宅の整備など社会資本の整備に尽力しています。
諸政策の実現で、人口が東京市をも上回った栄華の時代となりましたが、そのシンボル的存在が大阪城天守閣です。
当時、大阪城本丸跡には第四師団司令部が置かれ、大阪城内には第四師団の施設が点在していました。
天守閣復興事業は大阪市民の熱狂的な支持を受け、150万という寄付金も集まったため、その半額以上は第四師団司令部庁舎(現・複合施設「ミライザ大阪城」)の新築費に充当し(天守閣建設費は47万千409円)、本丸跡を大阪城公園とすることで軍部を説得。
本丸跡に天守閣を再建したのです。
再建にあたって、当時は豊臣時代の天守史料が乏しかったため、『大坂夏の陣屏風』を参考に、当時としては最先端の鉄筋コンクリート造りで再建しています。
近代建築による復興天守の第1号であるのと同時に、内部が大阪城資料館という博物館機能を有した施設であるのも画期的で、都市政策研究の先駆者・関一市長らしいアイデアといえるでしょう。
軍事施設を抱える大阪城跡は、激しい空襲を受け、京橋口多聞櫓をはじめ、二番櫓、三番櫓、伏見櫓、坤櫓(ひつじさるやぐら=南西側の櫓)を焼失しましたが、復興天守は大きな被害を受けることなく、戦後にも大阪のシンボルであり続けています。
平成7年〜平成9年には平成の大修理が行なわれ、建設当時の美しい姿を甦らせるとともに、耐震補強が施され、銅板瓦5万5000枚も葺き直されています(内部も博物館施設を充実)。
11月7日は、大阪城天守閣が再建した日 | |
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