サイトアイコン ニッポン旅マガジン

佐野家

佐野家

大分県杵築市、城下町・杵築で代々医家を務めた佐野家。共通観覧券対応施設のひとつで、杵築市役所にほど近い、坂周辺に家が一軒しかなかったという、ひとつ屋の坂と、紺屋(染物屋)が並んでいたという紺屋町の坂を上った、北台の一画に建っています。

主屋は、城下町・杵築で現存最古の建物

佐野家の始祖・佐野徳安は、慶長8年(1603年)、伊賀国名張郡(現・三重県)で生誕。
元和元年(1615年)、大坂夏の陣後の騒乱を避け、豊後岡藩(竹田市竹田)の藩医で、伯父・佐野卓節(さのたくせつ)の許に身を寄せて医学を修め、その後杵築で、「刀圭ノ妙、神ノ如シ」といわれるほどに活躍。
その噂を聞いた初代藩主・小笠原忠知(おがさわらただとも)は、城下に居宅を与え、侍医として召し抱えたのです。
こうして、城下で代々医師を務める佐野家の歴史が始まったのです。

現存する主屋は、天明2年(1782年)の築。
実は杵築城下に現存する邸宅のなかでは最古の建築物で、しかも武家屋敷とは趣を異にするので、必見の価値があります。

佐野家
名称 佐野家/さのけ
所在地 大分県杵築市杵築329
関連HP 杵築市公式ホームページ
ドライブで 大分空港道路杵築ICから約3.3km
駐車場 4台/無料
問い合わせ 佐野家 TEL:0978-62-2007
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

北台武家屋敷跡(杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区)

大分県杵築市、杵築城の西の高台に位置する、北台武家屋敷跡。杵築藩の上級武士が暮らした武家屋敷街で、杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区にも選定されています。海蝕崖で囲まれた南北の台地は武家地、台地を囲む低地は町人地という「サンドイッチ型城下

勘定場の坂

大分県杵築市(きつきし)、城下町・杵築を象徴する坂道のひとつで、坂の下に杵築藩の勘定場が置かれていたことがその名の由来です。石段の幅が広く、勾配も比較的緩やかなのは、当時武家の移動手段だった馬、横向きに上った籠かきの歩幅にあわせて造られてい

酢屋の坂

大分県杵築市、城下町・杵築の北台武家屋敷から商人の町・谷町へと通じる、杵築随一のロケーションを誇る坂道が、酢屋の坂。そのフォトジェニックな風景は、映画やドラマの舞台にも使われてきました。坂の下にかつて酢屋があったのが名の由来です。武家屋敷と

番所の坂

大分県杵築市、城下町・杵築(杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区)の風情ある坂道のひとつが、番所の坂。杵築城下にあった6ヶ所の番所のひとつ、北浜口番所があったことが坂の名の由来です。番所には番人が常駐し、夜間には大戸を閉めて通行ができなくな

大原邸

大分県杵築市(きつきし)、城下町・杵築で家老職など上級武士の北台武家屋敷を代表する邸宅が、大原邸。もとは杵築藩筆頭家老の中根斎の邸宅、御用屋敷で、江戸末期には石高200石の用人、大原文蔵の邸宅となった建物。杵築市北台南台伝統的建造物群保存地

磯矢邸

大分県杵築市(きつきし)、杵築城下町の北台武家屋敷にあり、もとは江戸時代後期、藩主の休息所・御用屋敷「楽寿亭」の一部だったという武家屋敷。明治時代には200石の武士、加藤与五右衛門の邸宅として使われ、明治時代には増改築も行なわれています。現

北台武家屋敷・藩校学習館跡

大分県杵築市、城下町・杵築の家老などの邸が並んでいた北台武家屋敷にある杵築藩の藩校「学習館」の跡が、北台武家屋敷・藩校学習館跡。藩政改革を推進した、杵築藩7代藩主・松平親賢(まつだいらちかかた)が、天明8年(1788年)に開いたのが、藩校「

能見邸

大分県杵築市、城下町・杵築の家老などの邸が並んでいた北台武家屋敷にある幕末期のものと推測される武家屋敷の遺構が、能見邸。玄関の間、上段の間を有する格式ある上級武士の邸宅で、庭や建物の様式美など、見ごたえのある武家屋敷です。喫茶、土産品の販売

杵築城

大分県杵築市、江戸時代には杵築藩(きつきはん)の藩庁だったのが、杵築城。杵築市街地の東端、北は高山川、東は守江湾に臨む標高30mの台山の上に築かれた連郭式平山城。室町時代初期に、木付城として大友一族と木村頼直によって築城され、戦国時代には大

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了