東インド艦隊司令長官・ペリー(Matthew Calbraith PERRY)は、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に浦賀沖に来航。久里浜に上陸、幕府側に親書を手渡すことに成功。その後、江戸湾(東京湾)の測量を実施、横須賀沖の猿島を「ペリーアイランド」と名付けています。
ペリーは江戸湾を測量し、猿島を「ペリーアイランド」に
ペリーは、江戸湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められたため、食料など艦隊の事情もあり、琉球へと退いています。
幕府は、文政8年(1825年)「異国船打払令」を出し、観音崎と房総半島の富津の間を結ぶ海上を「打ち沈め線」とし、この防衛線よりも江戸湾の内湾に侵入をする異国船には攻撃をすることが命ぜられています。
実際に天保8年(1837年)、 アメリカ商船モリソン号が浦賀沖を航行した際には、会津藩が構築守備した平根山台場から砲撃を行ない、退去させているのです。
その後、アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知った幕府は、対外政策を転換、天保13 年(1842年)に異国船打払令を廃止、従前の薪水給与令(異国船に薪や食料を補給し、近海から退去させる) に戻しています。
それでも江戸湾に入ってくるイギリスやアメリカの艦船を想定し、弘化4年(1845年)には猿島に台場を築き、川越藩が守備。
猿島の山頂部に大輪戸台場、北端に亥の崎台場を築いていますが、明治時代の東京湾要塞の建設時に第二砲台、第三砲台へと改築されているためその遺構は一部の敷石を除いて失われています。
さらに浦賀、走水にも台場を建設、猿島一帯が江戸湾の防衛ラインだったことがわかります。
そんな防衛体制でしたが、ペリー艦隊の来襲時には、砲撃を行なわず、しかも砲台まであった猿島に「ペリーアイランド」とまで名を付けさせているので、幕府はその戦力差から穏便に済ませようと考えていたことがよくわかります。
「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という狂歌が出るほど、江戸は大騒ぎとなりました。
上喜撰は当時人気の宇治の高級茶の銘柄で蒸気船のこと。
四盃は4杯(4隻)のこと。
4隻とは、ペリー艦隊の旗艦「サスケハナ号」、「ミシシッピ号」、そして「サプリマス号」と「ササラトガ号」ですが、「サプリマス号」と「ササラトガ号」は帆船で、正確には蒸気船は2隻でした。
『久里浜村誌』によれば、時の老中で、朝廷から日米修好通商条約調印の勅許を得ることに成功、後に安政の大獄(一橋派や尊皇攘夷派を弾圧)を指揮した間部詮勝(まなべあきかつ=越前鯖江藩第7代藩主)の作としています。
だとすれば、外圧をうまく利用して江戸市中の大騒ぎに乗じて、日米修好通商条約調印にこぎつけた殊勲者ということに。
ペリー提督が「ペリーアイランド」と名付けた島が東京湾に | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |