【日本の近代化を支えたシルク】 日本のシルクが消滅の危機に!

明治維新後、新政府が進めた日本の近代化。それを支えたのが開港した横浜港からのシルク(生糸)の輸出です。長野県、群馬県を中心に日本各地で行なわれた蚕糸業(さんしぎょう)。現在では国内で流通する生糸の自給率はなんと0.15%。日本のシルクは消滅の危機にあるのです。

明治44年、日本は世界一の生糸輸出国に

生糸の原料となる蚕の繭

蚕(かいこ)の繭から天然の繊維を取り出して糸にする蚕糸業。
横浜港が開港された当時、ヨーロッパの生糸は、蚕が、真菌性寄生虫に起因する「微粒子病」、非感染性の病気で蚕の幼虫を弱らせ死に至らせる「軟化病」によって壊滅的な打撃を受け、健康な蚕の卵の価格が急騰していました。

こうした欧州の絹産業の絶体絶命の危機を救ったのが、長野県や群馬県で産する生糸だったのです。
横浜港に運ばれた生糸は、船で遠くヨーロッパに運ばれ、日本政府は外資を獲得、近代化を進める原資として活用しました。
横浜の開港当時、一番の輸出品は生糸で、外国貿易金融を取り扱う銀行として「横浜正金銀行」が誕生、それが現存する神奈川県立歴史博物館の建物です。
有名な庭園の「三溪園」創設者・原三溪は生糸貿易で財を築いていますが、横浜にはこうした生糸貿易繁栄の遺構が残されています。

横浜港の輸出高の中で生糸がトップだったのは開港から昭和の初めまで。
明治44年には横浜港を筆頭に、日本は世界一の生糸輸出国となったのです。

八王子の丘陵に残される「絹の道」

今や国産の絹糸で作る着物は幻に!

蚕は桑の葉を主食として繭を作ります

戦後の生糸産業最盛期には、国内には45万戸の養蚕農家がありましたが、2023年には146戸、2024年には134戸にまで、国産繭の生産高も12万tから38tへと激減しているのです。
絹の着物1着をつくるために必要となる蚕の繭は、なんと9000個。
今や国産の絹糸で作る着物は幻となったのです。

養蚕は労働集約的な産業であるため、人手、つまりは人件費がかかります。
高度成長での人件費のアップにより、中国、韓国の生糸などに価格で対抗できなくなり、国際競争力が大幅にダウンしたことが衰退のきっかけです。
同時に、化繊、人絹(じんけん=人造絹糸の略)と称される木材パルプなどを原料にしたレーヨンなどの再生繊維が誕生、安価で光沢があるため普及していきました。
帝人の前身である帝国人造絹絲株式会社は大正7年に創業、昭和初期から次第にレーヨンが普及していったのです。

当時、日本の蚕糸業はピークの時で、国内農家の4割が養蚕を行なっていました。
その後、蚕糸業は減衰し、1975年には生糸の輸出はついにゼロに。

こうして徐々に衰退した生糸産業ですが、現在の養蚕農家の抱える問題は、農業従事者の高齢化もあります。
一定規模の繭生産がないと生糸産業は成り立たないため、養蚕農家の減少は製糸業の壊滅に直結します。
まさに日本の養蚕・製糸業は存亡の危機に瀕しているのです。

ちなみに西陣織など、国内の高級な絹織物で使われる生糸も中国製が大部分。
大日本蚕糸会も「このままでは、近々日本から蚕糸業がなくなる」と危機感を抱いています。

それでも2030年には絹の需要は1.5倍に増大することが予測され(ブランド品での使用が増加)、より高品質のシルクが求められるため、日本製シルクの出番もあるはず。
「蚕糸にはまだ可能性がある」と新たな需要の掘り起こしを模索しています。

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