夏目次郎左衛門吉信の碑

浜松市街の犀ヶ崖公園(さいががけこうえん)の北、国道257号(姫街道)沿いの地に立つ石碑が夏目次郎左衛門吉信(夏目吉信)の碑。犀ヶ崖古戦場の一角に位置するこの地は、夏目次郎左衛門吉信が「我こそは家康なり」と影武者に徹して討ち死にした場所。

家康に扮して散った闘将を讃える石碑

三方原の合戦で家康は武田信玄に大敗を喫し、家康は大久保忠世と少数に守られて浜松城を目ざします。
浜松城の留守居役を務める夏目次郎左衛門吉信は、二十余騎を率いて城を出て、死を覚悟した家康を諫めて城へと逃がし、影武者となって討ち死に。
こうした忠臣の活躍で命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、土地勘のない織田信長の援軍や徳川の将兵が城に戻りやすいように、そして大軍が城にいるかのごとくに見せるため城門周辺に無数のかがり火を焚き、太鼓櫓の太鼓を打ち鳴らしたと伝えられています。
この空城の計(くうじょうのけい=『三国志』では蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操軍を撤退させています)で、武田軍を欺き、追討を逃れて九死に一生を得たのです。

夏目吉信は、夏目漱石の先祖!
夏目吉信は1563(永禄6)年に西三河全域で起こった三河一向一揆のとき、代々松平家に仕えたものの、松平家康と敵対して一揆側に加担。
鎮圧に活躍した松平伊忠(まつだいらこれただ)に捕らわれるも、伊忠の嘆願により家康に許され帰参を果たしています。
この時の家康の温情に報いようと、浜松城の留守居だったのにもかかわらず、櫓に上って味方の窮地を知るや、戦場に駆けつけ、突撃しようとする家康を諌め、家康から兜と馬を借り受けて25騎を率いて武田軍へと突入したのです。
享年55。
家康は夏目吉信出身地の三河国幡豆郡豊坂村(現・愛知県額田郡幸田町)の明善寺と、松平家(徳川家の祖)の菩提寺である法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町)に夏目吉信の墓を築いています。
六栗城 (夏目屋敷)と明善寺は今も夏目家のルーツ。
明治の文豪・夏目漱石、「漫画コラムニスト」の夏目房之介は夏目氏の後裔となります。
夏目次郎左衛門吉信の碑
名称 夏目次郎左衛門吉信の碑/なつめじろうざえもんよしのぶのひ
所在地 静岡県浜松市中区布橋2
電車・バスで JR浜松駅バスターミナルから遠鉄バスで9分、さいが崖下車、徒歩すぐ。または、遠州鉄道鉄道線遠州病院駅から徒歩25分
ドライブで 東名高速道路三方原スマートICから約6.5km。浜松西ICから約7.7km
駐車場 犀ヶ崖資料館駐車場を利用
問い合わせ 浜松市観光インフォメーションセンター TEL:053-452-1634
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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