上野の寛永寺で謹慎する徳川慶喜は、慶喜護衛のために結成された精鋭隊のトップで旧幕臣の山岡鉄舟に、駿府(すんぷ=現・静岡市)に布陣する官軍・西郷隆盛を訪ねて、恭順の意思を伝えます。その会見が行なわれたのが現在の静岡駅前、上伝馬町の松崎屋源兵衛宅跡で、西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑が立っています。
官軍参謀・西郷隆盛と旧幕臣・山岡鉄舟が会談
勝海舟の手紙を手にした山岡鉄舟は、益満休之助とともに駿府を目指します。
新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討するために、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を大総督、西郷隆盛を参謀とする東征軍(官軍)を編成し、3月5日に駿府まで進軍していたのです(有栖川宮熾仁親王は駿府城に入城)。
「宮さん宮さん御馬(おんま)の前(まへ)に びらびらするのはなんじゃいな」(トコトンヤレ節)という日本初の軍歌の「宮さん」は、この有栖川宮熾仁親王のことで、馬の前に錦の御旗を掲げて東征する様子を歌っています。
慶応4年(1868年)3月9日、山岡鉄舟は駿府に到着し、上伝馬町の松崎屋源兵衛宅に滞在していた西郷隆盛と会見をします。
この時、西郷が提案したのが慶喜助命のために7つの条件(形式上は東征大総督である有栖川宮熾仁親王に徳川家および諸藩の処分の裁量権などが与えられていました)。
7つの条件が、徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。江戸城を明け渡すこと。軍艦をすべて引き渡すこと。武器をすべて引き渡すこと。城内の家臣は向島に移って謹慎すること。徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
山岡鉄舟は、7つの条件のうち慶喜を備前藩に預けるという一条だけは絶対に受けられないと拒否。
逆の立場であり、島津公が他家預かりとされたら耐えうるのかと、西郷隆盛に反論し、西郷を説き伏せます。
この西郷隆盛・山岡鉄舟の会見は、3月13日〜14日に江戸・薩摩藩邸で行なわれた、勝海舟と西郷隆盛の会談へとつながり、江戸城の無血開城が実現します。
山岡鉄舟は、その年(明治元年)冬に、駿府に移り住み、翌年、静岡藩権大参事に就任しています。
静岡に無禄移住した旧幕臣たちの支援にあたっていたと推測されます。
西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑 | |
名称 | 西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑/さいごうたかもり・やまおかてっしゅうかいけんのひ |
所在地 | 静岡県静岡市葵区御幸町3-21 |
電車・バスで | JR静岡駅から徒歩10分 |
ドライブで | 東名高速道路静岡ICから約4.4km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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