府中弥次喜多像

府中弥次喜多像

静岡県静岡市葵区追手町、駿府城巽櫓(すんぷじょうたつみやぐら)を眼前に望む、旧駿府城三の丸、中堀の脇に立つのが、府中弥次喜多像。弥次さん喜多さん像は、京都、三条大橋の西詰にある像が有名ですが、『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は、駿府(静岡市)の出身です。

十返舎一九、そして弥次さん喜多さんも静岡出身!

駿河国府中(駿府:現在の静岡市葵区両替町1丁目/十返舎一九生家跡伝承地の案内板が立っています)に、駿府町奉行同心の子として、明和2年(1765年)生誕の十返舎一九(十返舎一九の墓は東京都中央区・東陽院ですが、親族の墓は今でも静岡市・顕光院にあります)。
本名は、重田貞一(しげたさだかつ)で、20代の頃には駿府奉行所・小田切直年に仕え、江戸や大坂に随行していますが、後に浪人となって、大坂で近松余七の名で浄瑠璃作家になった後、江戸で、出版業をしていた蔦屋重三郎の仕事を手伝い、戯作の道に入り、才能を発揮して戯作者、絵師として活躍しています。

有名な『東海道中膝栗毛』は、主人公の弥次郎兵衛と喜多八(弥次喜多)の失敗談を中心とした道中日記を面白おかしく描いたもので、現代風にいえば『失敗だらけの東海道徒歩旅行』。
当時の大ベストセラーで、日本初ともいえる旅行ブームを沸き起こしています。

駿府(府中)が登場するのは、享和2年(1802年)刊行の『道中膝栗毛 後篇 乾坤(けんこん)』(箱根宿〜岡部宿)。
府中では、伝馬町の宿屋に宿泊し、弥次さんは、知人を訪ねて、お金を工面し、意気軒昂で宿屋に戻り、安倍川の遊郭で夜を過ごします。
伝馬町の宿屋に帰り、朝飯を食べて鞠子宿へと旅立っています。

この知人からの借金は、十返舎一九の出身地である駿府だからこそのエピソードでしょう。

『東海道中膝栗毛』発端編となる『浮世道中 膝栗毛』(品川宿〜箱根宿)では、弥次郎兵衛は、駿河国府中の大商店の主人(生来の怠け者で遊蕩の挙句に身代を傾け、江戸へ夜逃げし、神田八丁堀の長屋に居住)、親子ほど年が離れた若き喜多八は、江尻宿の生まれで、府中の旅芸人一座の役者・鼻之助とで、客だった弥次さんと江戸に夜逃げという説明がされていますが、なぜか府中宿では、当時有名だった安倍川遊郭の場所がわからないという設定になっています。

ちなみに、3代・歌川豊国(歌川国貞)が描いた『東海道五十三次之内 江尻 弥次良兵衛』には『東海 道中膝栗毛』の登場人物、弥次さんこと江尻弥次良兵衛で、背景には清水港が描かれているので、弥次さんが江尻出身ということは、江戸時代には有名だったことがわかります。

府中弥次喜多像は、『東海道中膝栗毛』発刊200年を記念して平成14年に建立されたもの。
「日本初『旅ブーム』を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~」は日本遺産に認定され、追分羊羹、府中宿、丁字屋などが構成資産になっています。

府中弥次喜多像
名称 府中弥次喜多像/ふちゅうやじきたぞう
所在地 静岡市葵区駿府城公園1-1
関連HP 駿府城公園公式ホームページ
電車・バスで JR静岡駅から駿府浪漫バスで15分、東御門下車
ドライブで 東名高速道路静岡ICから約4.5km。または、新東名高速道路新静岡ICから約9km
駐車場 市民文化会館地下駐車場(246台/有料、入庫は8:30~21:00)
問い合わせ 駿府城公園二の丸施設管理事務所 TEL:054-251-0016/FAX:054-251-0056
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

駿府城(駿府城公園)

静岡市の中心に位置する二重の堀と美しい石垣に囲まれた、静岡市民憩いの場。かつて徳川家康が築城、余生を送った駿府城の跡で、駿府藩の藩庁。府中城や静岡城とも呼ばれています。日清戦争後の明治29年から終戦まで、静岡歩兵第三十四聯隊の兵営があった場

弥次さん喜多さんの像

弥次さん喜多さんの像

京都、三条大橋の西のたもとにあるのが弥次さん喜多さんの像。江戸時代後期の戯作者・十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛』には、弥次さん喜多さんが清水寺に詣でた後に、三条大橋付近に宿泊する話が登場します。平成6年に三条小橋商店街振

十返舎一九の墓

十返舎一九の墓

東京都中央区勝どき4丁目、清澄通りと東仲通りの交差点、日蓮宗の寺、東陽院境内にあるが、十返舎一九の墓(じっぺんしゃいっくのはか)。東陽院前の道路際に徳川夢声の筆による「十返舎一九墓所」の石碑が立ち、本堂裏手の屋内墓地の一角に墓塔があります。

 

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