長岡リリックホール
信濃川西岸、長岡大橋のたもと近くに広がる「千秋が原ふるさとの森」。新潟県立近代美術館、産業交流会館ハイブ長岡(長岡市産業展示室)などが建ち並ぶ、広大な敷地の一角を占めるのが、長岡リリックホール。.コンサートホール、シアタ…
信濃川西岸、長岡大橋のたもと近くに広がる「千秋が原ふるさとの森」。新潟県立近代美術館、産業交流会館ハイブ長岡(長岡市産業展示室)などが建ち並ぶ、広大な敷地の一角を占めるのが、長岡リリックホール。.コンサートホール、シアタ…
かつて八丁沖(八町沖)と呼ばれた広大な沼地の北西端にあたる、新潟県長岡市大黒町。ここが河井継之助率いる長岡藩軍と長州藩、薩摩藩を主力とする新政府軍の北越戊辰戦争の激戦地。現在ではその一角が大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記…
かつての長岡城(現在のJR長岡駅周辺)の北東には、東西3km、南北5kmにもおよぶ広大な沼地が広がっていました。それが八丁沖(別名「八町沖」)。現在の地名でいえば大黒、百束、四ッ屋、富島、亀貝一帯。幕末の北越戊辰戦争の激…
JR長岡駅・大手口の駅前広場に立つ「長岡城本丸跡の碑」。もともと本丸は現在の長岡駅が建つ場所にありましたが、明治元年・慶応4年(1868年)、北越戊辰戦争のため焼失し、廃城に。その後、公園にもなりましたが明治31年6月1…
JR長岡駅・大手口からのびる大手通り(国道351号)沿いの現「アオーレ長岡」の西側が、長岡城二の丸跡。この長岡城、もとは堀直竒(ほりなおより)が建設に着手。堀氏はその後、城の完成を見ずに村上藩へ移封され、代わって元和4年…
新潟県長岡市東神田にある浄土宗の寺が光輝山月照院栄涼寺。元和5年(1619年)、長岡藩に移封された牧野忠成により開かれたと伝えられますが、もとは牧野氏が三河国牛久保城主時代(牛久保城=現・愛知県豊川市牛久保)に創建された…
信濃川右岸、新潟県長岡市渡里町にある浄土真宗本願寺派の寺が西福寺。明治元年・慶応4年(1868年)に起こった北越戊辰戦争時、5月19日の早朝に西軍(新政府軍=薩長連合軍)が信濃川を強行渡河しましたが、その際、一藩士によっ…
幕末の文政10年1月1日(1827年1月27日)、越後長岡藩の長岡城下(現・新潟県長岡市)に生まれ、その後の長岡藩を率いた河井継之助(かわいつぎのすけ)。父は120石の中級武士で、邸宅は御堀の外、神田橋門近くの現在の長岡…
南北16kmの海岸線に寺泊中央海水浴場、金山海水浴場、郷本海水浴場と続く寺泊海岸。遠浅の寺泊中央海水浴場は汀線(浜の長さ)650m、奥行250mと広々としており、新潟県内でも人気のビーチとなっています。寺泊中央海水浴場で…
新潟県長岡市街を貫くメインストリート、大手通の角地にある「米百俵之碑」。もとは戊辰戦争の敗戦後、長岡藩の文武総督に任命された小林虎三郎が、昌福寺の本堂を間借りして開いた「国漢学校」を明治3年(1870年)6月15日、当地…
良寛が1831(天保2)年、74歳で息をひきとるまでの晩年の4年間、身を寄せたのが島崎村(現・長岡市島崎)「能登屋」の主人・木村元右衛門の邸宅。良寛と貞心尼が出会った場所もこの木村家です。良寛が住んだ木小屋は今は失われ、…
良寛が1831(天保2)年、74歳で息をひきとるまでの4年間、身を寄せていたのが越後・長岡の木村家。その木村家の菩提寺が隆泉寺で、ともに加賀がルーツなのだとか。良寛の墓は、良寛の三回忌に木村家の願いで建立されたもの。