駿河の田中城には、「信玄、信長、秀吉、家康」が逗留!

静岡県藤枝市にある田中城は、国内には例の少ない円郭式城郭。徳川家康が鯛の天ぷらを食し、死につながったという城です。田中藩という藩名も聞き慣れなければ、田中城という城の存在も知られていませんが、織田信長、豊臣秀吉も逗留。そんな田中城を築いたのは、なんと武田信玄です。

三河を睨んだ武田信玄が築いたのが始まり

武田信玄
円形の縄張の城を築き田中城と名付けた武田信玄。まさに田んぼの中の城だった!

元亀元年(1570)正月、今川氏真(いまがわうじざね=今川義元が討たれた後の当主)の家臣・長谷川正長(はせがわまさなが)の守る徳之一色城(田中城の前身/現・藤枝市西益津)を武田信玄が攻略。
武田信玄は三河の徳川家康への対抗上、この地を重要視し、配下の馬場信房(馬場信春=武田四天王のひとり)に命じて武田流の馬出曲輪を有する城を築き、田中城と命名してたのです。
家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)が入城したことからも、その重要性がよくわかります。
元亀2年(1571年)に信玄は大規模な遠江・三河侵攻を行なっていますが、その前提としてこの田中城築城があったのだと推測されます。

「甲州流築城法の粋を集めた名城」は、信玄が山本勘助を付けて学ばせた技術(『甲陽軍艦』)によるとされています(ただし『甲陽軍艦』に関しては、歴史研究の史料としての価値が否定されています)。

信玄は駿河支配のために、馬場信房に命じて、江尻城(現在の静岡市清水区江尻町)、清水城(清水袋城/現在の静岡市清水区本町)、小山城(こやまじょう/現在の静岡県榛原郡吉田町)、諏訪原城(現在の静岡県島田市金谷/国の史跡)を築いていますが、武田氏の駿河侵攻後、西駿河の拠点となったのがこの田中城。

武田氏の駿河支配の拠点で、難攻不落を誇った田中城も、武田勝頼没後の天正10年(1582年)2月20日に、武田家を離反した穴山梅雪の説得で開城しています。

馬場信房(馬場信春)
甲州流築城法を駆使した築城の名手、馬場信房(馬場信春)

本能寺の変直前に織田信長が「富士山見物」で逗留

織田信長
田中城にも逗留した織田信長

武田信玄が築いた田中城には、意外にも織田信長が逗留しています。
『当代記』に、開城から間もない天正10年(1582年)4月14日、織田信長が田中城に逗留と記されているのですが、『当代記』が『信長公記』を中心に他の記録資料を再編した二次史料で、信憑性に欠ける部分もあるので、信長の動静を確認してみましょう。

天正10年3月11日、天目山(てんもくざん/山梨県甲州市大和町)で武田勝頼が自刃し、武田家滅亡。
3月14日、信長は伊那浪合(長野県阿智村)で武田勝頼らの首級を実検。
3月19日、高遠から山を越えて諏訪の法華寺(ほっけじ/長野県諏訪市にある臨済宗の寺)に逗留。
4月10日、信長は富士山見物に出立し、徳川家康の手厚い接待を受けます(信長は武田領のうち駿河国を家康に与えていました)。
信長と家康の一行は、富士山を観覧した後、白糸の滝、人穴などの名所を見学し、富士山本宮浅間大社に築かれた御座所に宿泊しています。
4月12日、駿河・興国寺城(静岡県沼津市根古屋/国の史跡)で北条氏政による接待。
江尻城(静岡市清水区江尻町/本丸跡=清水江尻小学校)を経て4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城。
浜松からは船で吉田城(現・愛知県豊橋市)に至り、4月19日に清洲城に入城。
4月21日に安土城へ帰城。
そして、この「富士山旅行」を終えた後、6月2日に本能寺の変が勃発しています。

どうやら、史実としても4月14日に田中城に逗留しているようです。

小田原攻めの直前に豊臣秀吉逗留

豊臣秀吉
豊臣秀吉は小田原攻めの際に田中城に逗留

織田信長没後は、豊臣秀吉も田中城に逗留しています。

家康の家臣・松平家忠(まつだいらいえただ=深溝松平家4代当主)の『家忠日記』には、天正18年(1590年)3月18日、豊臣秀吉が田中城に逗留したことが記されています。
『家忠日記』は、織田信長の家臣で黒人の弥助に関しても、「名は弥助、身の丈六尺二分、黒人男性、身はすみのごとく」と記しているため、黒人だったことも判明、貴重な史料になっているのです。

豊臣秀吉は、小田原攻めの途中で、3月27日には沼津に到着し、3月29日に進撃を開始し、山中城を攻撃していますが、つかの間の休息をこの田中城でとったのだと推測できます。

田中城で食した鯛の天ぷらが家康最後のご馳走に

徳川家康
田中城で鯛の天ぷらを食して腹痛を起こした徳川家康

武田家滅亡後に駿河を領有し、さらに江戸に幕府を開いた後に、駿府で大御所政治を展開するなど、徳川家康と駿河は密接な関係にあります。

『徳川実紀』(東照宮御実記附録巻十六)によれば、元和2年1月21日(1616年3月8日)、徳川家康は駿河で鷹狩を行なった際、田中城に立ち寄り、京の豪商で、徳川家の呉服御用を一手に引き受けていた3代・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)に上方(関西)での流行を尋ねます。
茶屋四郎次郎は、鯛をカヤの油で揚げ、その上にニラをすりおろした料理が流行っていることを話します。
早速、それを調理させ、食したところ、その夜、激しい腹痛にというものです。

小康状態となった1月25日にようやく駿府城に帰還しています。

近年の研究ではもともと胃がんを患っていて、それが田中城で悪化しただけで、食中毒ではなかったというのが定説に。
死去したのは4月17日と、日数が離れていることからも食中毒ではなさそうですし、茶屋四郎次郎にもお咎めもありませんでした。

家康最後の鷹狩が、この田中城周辺で、以降は療養生活となるので、田中城で味わった鯛の天ぷらが「最後のご馳走」だったのかもしれません。

田中城には信玄、家康、信長、秀吉が逗留!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

田中城下屋敷を見学

同心円状に4重に堀が巡らされた田中城(静岡県藤枝市)。信玄が配下の馬場信房に命じて甲州流の築城術を駆使して築いた難攻不落の城です。江戸時代には田中藩の藩庁にもなりましたが、現在では田中藩も田中城も一部の城好き意外には忘れ去られた存在になって

田中城で食した「鯛の天ぷら」が家康の死因!?

徳川家康の死因は、定かでありません。一般に流布しているのは「鯛の天ぷらを食べて死んだ」というもの。鯛の天ぷらにあたったのでしょうか?その鯛の天ぷらを食したといわれるのが、田中城(現・藤枝市)です。周囲が湿地の田中城は鷹狩の基地に絶好だった!

城郭が円形!? 田中城に登城

城の全体設計、つまりはどこにどう曲輪(くるわ=郭)を配置するかというのは、戦国時代を生き抜く城主にとっては最重要課題。地形を活かして、独特な城郭が生まれています。同心円状に堀や土塁を何重にも重ねて配置する縄張(なわばり=曲輪やこれに伴う堀や

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ