老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)というとどんなイメージでしょう。時代劇では池波正太郎の『剣客商売』など、一部を除いて、賄賂をもらった悪人、そして悪政を強いた老中のイメージが押し出されていますが、実際の政治、そして人物像は少し異なるようです。
相良藩主時代に老中に就任、重商主義政策に失敗

まずは大河ドラマ『べらぼう』で再注目された田沼意次の生い立ち、家系から見てみましょう。
田沼意次の父・田沼意行(たぬまおきゆき)は、紀州藩士で足軽の子。
徳川吉宗に仕え、側近になったことで、享保元年(1716年)の吉宗が8代将軍に就任する際、江戸に帯同して幕臣に加わり、旗本となったのです。
つまり、田沼意次は、旗本という家柄。
延享2年(1745年)、9代将軍・徳川家重の将軍就任に伴って本丸務めとなり、その後出世街道を歩み、宝暦8年(1758年)、郡上藩の百姓一揆を裁くために、ついに1万石の大名にまで昇進します。
宝暦11年(1761年)、家重は没しますが、後を継いだ10代将軍・徳川家治の信頼もあって明和4年(1767年)、2万石で相良城主となり、ついに城持ちの大名となったのです。
ここからさらに出世街道を爆進し、明和6年(1769年)には老中格に。
そして安永元年(1772年)、相良藩5万7000石(7ヶ国14郡を領有)の大名となったのです。
質素倹約で、実質的には農民などに税負担を強いて財政改革を果たした吉宗でしたが、家重時代には各地で百姓一揆が勃発、郡上藩の百姓一揆での裁定の経験もあった田沼意次は、現在の消費税のように生産や流通に広く薄く課税するシステム(重商主義の政策)を採用。
これが結果として諸大名や庶民の反発を招き、ライバルの松平定信が力をつけ、天明6年(1786年)、徳川家治の死去とともに田沼時代は終焉を迎えたのです。
TOPの画像/『田沼意次』(静岡県「牧之原市史料館」収蔵)
田沼意次VS松平定信の権力闘争
田沼意次を失脚させた松平定信は、陸奥国白河藩の第3代藩主で、名君のイメージがあります。
田沼意次を失脚させ、老中に就いた松平定信は、緊縮型の寛政の改革を断行。
「田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水」という歌が流行りました。
しかし、改革が進むにつれ、厳しすぎる改革で庶民が苦しむことになり、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という、世俗的な田沼時代を懐かしむ歌に変わったのです。
結果的に田沼時代を終焉に導いた松平定信も庶民の批判を受け、失脚したのです。
近年では、田沼時代と寛政の改革の連続性も論じられるようになり、松平定信自身も田沼意次に賄賂を贈って家格の上昇を目論んでいるなど、田沼意次が悪人という像は、松平定信時代に形成されたものと考えるほうが自然です。
老中失脚後の松平定信、白河藩の財政建て直しに成功、今も名君として賛えられていますが、田沼意次は居城の相良城は松平定信によって破却され、失意のうちに江戸で死去しています。
墓所は、東京・染井霊園近くにある臨済宗妙心寺派の寺、勝林寺(東京都豊島区駒込7-4-14/以前は文京区蓬莱町に)。
「田沼意次侯特別御朱印」は大判で「萬民和樂」の文字が入っています。
| 【田沼意次の真実を知る!】 賄賂をもらった老中というのは嘘!? | |
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