山縣有朋記念館

山縣有朋記念館

日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」といわれる明治の元勲・山縣有朋(やまがたありとも)。山縣有朋は、殖産興業を目的に、明治19年、那須・高原山山麓(現・矢板市)に伊佐野農場(後の山縣農場)を開場。山縣有朋記念館は、山縣有朋ゆかりの洋館を記念館として再生したもの。明治時代に那須周辺に開かれた華族農場の歴史を今に伝えています。

山縣有朋が開いた山縣農場に移築された洋館が記念館に!

山縣有朋記念館

山縣有朋は、当初、渋沢栄一が牧場経営を目的として官有地の払い下げを計画していた天然林150町歩、草山600町歩を譲り受け、「農は国家経済の基本」というポリシーを、自ら実践しようとしたのです。
農家の次男、三男を募集し、44戸300余人が移住して開墾事業に従事しました(昭和9年には山縣有道が小作人に土地を分譲しています)。
現在、矢板市上伊佐野、下伊佐野、平野などの農地は、この山縣農場の跡地です(第一農場、第二農場の字名も残っています)。

建物(明治の洋館)は、明治42年、平安神宮などの設計で知られる伊東忠太の設計。
山縣有朋の別邸・小田原板橋「古稀庵」に建てられた木造洋館を大正13年に移築したもの。

明治40年、70歳(古稀)を迎えた山縣有朋が小田原に築いた「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損害保険小田原研修所)には、東京の庭師・岩本勝五郎が築いた庭園もありましたが、庭園は山縣農場に移築することはできず、小田原に現存しています。

館内には、日本陸軍創設時に有朋が作成したといわれる「軍隊手帳第一号」など、山縣有朋の遺品や資料を展示しています。

那須野ヶ原の華族農場
殖産興業を目的に、明治政府が那須野ヶ原の官有地(原野、山林)を払い下げ、大農場を開いたのは、栃木県令・三島通庸(みしまみちつね)をはじめ、那須高原に瀟洒な洋館の残る青木周蔵、大山巌(おおやまいわお)、山田顕義(やまだあきよし)、西郷従道(さいごうつぐみち)、松方正義(まつかたまさよし)、日本赤十字社の創始者・佐野常民(さのつねたみ)、品川弥二郎(しながわやじろう)、大垣藩の最後の藩主だった戸田氏共(とだうじたか)、長府藩最後の藩主・毛利元敏(もうりもととし)、佐賀藩最後の藩主・鍋島直大(なべしまなおひろ)。
薩長の藩閥を中心に、元藩主などがこぞって大農場主になっています。
山縣有朋は、明治2年〜明治3年の欧米視察でドイツの貴族農場を見て、那須野ヶ原への入植を希望しますが、すでに土地は他の華族に抑えられ、那須野ヶ原西部に隣接する伊佐野に農場を開いたのです。
山縣有朋記念館
名称 山縣有朋記念館/やまがたありともきねんかん
所在地 栃木県矢板市上伊佐野1022
関連HP 山縣有朋記念館公式ホームページ
電車・バスで JR矢板駅からタクシーで15分
ドライブで 東北自動車道矢板ICから約16.3km
駐車場 20台/無料
問い合わせ 山縣有朋記念館 TEL:0287-44-2320/FAX:0287-43-2695
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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