東京で出世祈願のパワースポットといえば、江戸の昔から愛宕山の「出世の石段」。この「出世の石段」には、この石段を馬で駆け上がったという勇壮な武士の美談が残されています。その愛宕山には江戸時代、家康が京の愛宕山(あたごやま)から勝軍地蔵(将軍地蔵)を勧請したことに始まるパワースポットです。
江戸時代に家康が尊崇した勝軍地蔵(将軍地蔵)を祀る
京・愛宕山白雲寺の本尊が勝軍地蔵(将軍地蔵)。神仏混淆の時代に、愛宕権現は勝軍地蔵が垂迹した(仏が神の形を取って仮に現れた)軍神として崇められました。
大宝年間、役小角(えんのおづぬ=修験道の祖)が白山修験の開祖・泰澄(たいちょう)と山城国(現・京都府)・愛宕山に登ったとき、雷鳴とともに現れ、天下万民の救済を誓ったのが勝軍地蔵(将軍地蔵)と伝えられています。
愛宕信仰(あたごしんこう)は本来は火防(ひぶせ)の信仰ですが、神仏混淆時代には勝軍地蔵を本地仏としたので、家康などの武将にも尊崇される武神としての信仰もあったのです。
生きるか死ぬかの戦国時代を生き抜き、ようやく江戸に幕府を開いた家康は、1603(慶長8)年、桜田山に愛宕権現を勧請します。
これが現在の愛宕山、愛宕神社の創始ですが、1603(慶長8)年は、家康が征夷大将軍に任ぜられた年。江戸の火防のために愛宕権現を勧請したといわれていますが、もうひとつ、軍神・勝軍地蔵の存在も強く意識していたと思われます。
(残念ながら別当寺の円福寺に祀られた勝軍地蔵は、関東大震災の火事で焼失しています)。
急な石段を馬で上ったのは過去4例
勝軍地蔵で参詣者を集めた愛宕山ですが、現在も江戸時代と変わらないのが、拝殿へと上る斜度37度という急な石段。これが通称「出世の石段」。
この石段が「出世の石段」といわれるようになったのは、江戸時代に遡ります。
1634(寛永11)年、3代将軍、徳川家光が将軍家菩提寺の芝・増上寺に参詣の帰路、愛宕山に咲く梅に気づき、 「誰か、馬であの梅を取って参れ!」と命じます。
居合わせた多くの武将が怯(ひる)むなか、四国・丸亀藩の曲垣平九郎(まがきへいくろう)が馬で急な石段を上り降りし、家光から「日本一の馬術の名人」と讃えられました。その名声が知れ渡ったことから「出世の石段」呼ばれるように。
馬で上がったことの真実を裏付けるように、その後も、明治15年、愛馬・雲竜号にまたがる曲馬師・石川清馬が、大正14年には陸軍参謀本部所属の軍馬・平形にまたがった岩木利夫(参謀本部馬丁)が1分で駆け上がっています。石段は下りのほうが困難で、軍馬・平形も下りは45分を要しています。
昭和57年にはスタントマンの渡辺隆馬が、日本テレビの特番『史実に挑戦』のロケで、なんと32秒で駆け上がっています。
「平成になってもチャレンジしたいという申し出はある」(愛宕神社)とのことですが、日程等の折り合いがなかなかつかずにまだ実現していません。首尾よく実現すれば、江戸、明治、大正、昭和、そして平成と連続しての「馬の石段駆け上り」となります。
曲垣平九郎が石段を馬で上って出世した話は、講談『寛永三馬術』で世に広まったため、後世の作り話とも思われてきました。『新修丸亀市史』によると、曲垣平九郎の名前を史料上で確認できますが、平九郎は出世せず、不遇の人生だったとも。『愛宕山梅花の誉』が事実だったかどうかは定かでありません。しかし、曲垣平九郎以外に3例も成功例があるので、フィクションというのも無理がある気がします。逆に、もし事実なら、曲垣平九郎にとって現実は厳しく、名声が広まってもさらなる精進が重要という戒めなのかもしれません。
出世の石段(愛宕神社) | |
名称 | 出世の石段(愛宕神社)/しゅっせのいしだん(あたごじんじゃ) |
所在地 | 東京都港区愛宕1-5-3 |
関連HP | 愛宕神社公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ日比谷線神谷町駅から徒歩8分、都営三田線御成門駅から徒歩10分 |
ドライブで | 首都高速芝公園ランプから約1.6km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 愛宕神社社務所 TEL:03-3431-0327/FAX:03-3431-0341 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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