東京都文京区本駒込3丁目にある曹洞宗の古刹、吉祥寺(きちじょうじ)。長禄2年(1458年)、河越城(川越城)、岩槻城、そして江戸城を築城したことで有名な太田道灌(おおたどうかん=太田持資)が江戸城内に開いたという由緒のある寺です。江戸城築城で水道橋に移され、明暦の大火で駒込の現寺地に移っています。
江戸城に太田道灌が創建した寺がルーツの曹洞宗の名刹
太田道灌の江戸城築城に際し、吉祥増上という四字が刻まれた金印が出土し、この金印を本尊に、青巌周陽(せいがんしゅうよう)を招いて建立したと伝わります。
江戸城内の吉祥門(現在の内桜田門の場所にあった家康築城以前の江戸城の門)の内側にあり、吉祥庵と称したのが始まり。
天正18年(1590年)8月1日の徳川家康関東入府にともなって、江戸城から神田台(現在の都立工芸高校の周辺)に移され、明暦3年(1657年)の明暦の大火後に現在地の本駒込に移りました。
水道橋が当寺の表門であったと伝え、その門前の住民が明暦の大火で集団移転して開かれた町が今の吉祥寺(武蔵野市)です。
江戸時代には境内に駒澤大学の前身となる曹洞宗の学寮「旃檀林」(せんだんりん)が築かれ、多くの学僧が学んでいました。
幕府の学問所「昌平黌」と並ぶ漢学の研究所として繁栄しています。
現存する諏訪山吉祥寺の山門(惣門)には「旃檀林」の額が掲げられていますが(駒澤大学の校歌にも「旃檀林」が出てきます)、往時には1000人の学僧を抱えていました。
七堂伽藍は、第二次世界大戦の空襲で焼失し、往時の建物としては享和2年(1802年)築の山門と文化元年(1804年)築の経蔵が残るのみとなっています。
境内には備中松山藩第7代藩主・板倉勝静(いたくらかつきよ)、松前藩3代藩主・松前氏広、戊辰戦争で箱館に立てこもった榎本武揚(えのもとたけあき)、明治時代の小説家・川上眉山(かわかみびざん)、二宮尊徳などの墓があります。
巨大な釈迦如来坐像は吉祥寺の大仏として有名。
江戸時代には、丈六、青銅、如来、坐像、露座という条件で民衆の発願により大仏の建立が許されていましたが、享保7年(1722年)鋳造の吉祥寺大仏の寄進者はわかっていません。
八百屋お七と吉三郎
境内に昭和41年建立の「八百屋お七・吉三郎比翼塚」があります。
天和2年12月28日(1683年1月25日)、駒込の大円寺から出火した天和の大火で本郷に住む八百屋市左衛門の一家は焼け出され、檀那寺(だんなでら)である吉祥寺に避難します。
そこで市左衛門の娘・お七は寺小姓(てらこしょう)の吉三郎(きちさぶろう)と恋に落ちます。
天和3年(1683年)1月、お七は、火事になれば吉三郎に会えると、新築となった我が家に火を放ちます。
火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまりますが、お七は、鈴ヶ森刑場で火炙(ひあぶり)の刑に処せられています。
避難先の寺は、小石川の円乗寺、正仙院と諸説あり、寺小姓の名も佐兵衛、庄之助と定かでありません。
大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』に取り上げて有名になった事件で、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、多くのフィクションが生まれています。
『好色五人女』では、吉祥寺の吉三郎ということで、吉祥寺境内に「八百屋お七・吉三郎比翼塚」が建立されています。
ただし、お七に関する史料はほとんどなく、お七の家が八百屋だったのかすらもわかっていません。
『江戸切絵図』に見る 吉祥寺
吉祥寺周辺には、大名屋敷や旗本屋敷が多く、参勤交代で江戸滞在中に没した際に、藩によっては吉祥寺に葬られることも多く、江戸の菩提寺としても機能していました。
吉祥寺 | |
名称 | 吉祥寺/きちじょうじ Kichijoji Temple |
所在地 | 東京都文京区本駒込3-19-17 |
関連HP | 文京区公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ南北線本駒込駅から徒歩7分。都営地下鉄三田線白山駅から徒歩12分 |
ドライブで | 首都高速5号池袋線護国寺ランプから約3.5km |
駐車場 | 境内駐車場を利用 |
問い合わせ | 吉祥寺 TEL:03-3823-2010 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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