修性院

修性院

江戸近郊の行楽地として賑わった日暮の里(ひぐらしのさと)。荒川区西日暮里にある日蓮宗の寺、修性院(しゅしょういん)。妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺とともに花見寺とも呼ばれ、歌川広重の『名所江戸百景』の「日暮里寺院の林泉」にも描かれています。『谷中七福神』の布袋尊(「ひぐらしの布袋」)を祀っています。

『谷中七福神』の「ひぐらしの布袋」を祀る

山号は運啓山で、日蓮宗の寺。
もともとは、戦国時代の天正元年(1573年)、豊島郡田中村(天領/現・練馬区南田中)に運啓山純光寺(下総国・中山法華経寺の末寺)として創建、寛文3年(1663年)に現在地に移転しています。
移転当初は谷中感応寺(現・天王寺)の末寺でしたが、元禄11年(1698年)に日運が日蓮宗に改宗しています。
江戸時代中期には「日暮の里」と呼ばれ、文人の訪れも多く、宝暦年間(1751年〜1764年)、境内に仮山を造り多数の花樹を植栽したため花見寺と呼ばれるように(『新編武蔵風土記稿』などによる)。
また、毘沙門は伝教大師の作と伝えられ、江戸で最初の七福神巡りの寺ともなったのです。

木造布袋尊像は荒川区の文化財に指定。
このほか日尾荊山衣幘蔵碑(ひおけいざんいさくぞうひ)、木造一塔両尊仏坐像付・胎内文書、木造三十番神坐像などの文化財を有しています。
日尾荊山は、江戸時代末の儒学者・国学者で、江戸・湯島に私塾「至誠堂」を開いています。
衣幘碑はその顕彰碑(谷中・本通寺に「荊山日尾先生之墓」があります)。
修性院の「日尾荊山衣幘蔵碑」を模した碑が、日尾荊山生誕地の埼玉県小鹿野町にも建立されています。

『名所江戸百景』日暮里寺院の林泉

『名所江戸百景』日暮里寺院の林泉
『名所江戸百景』日暮里寺院の林泉/歌川広重

安政4年(1857年)刊行の『名所江戸百景』日暮里寺院の林泉。
歌川広重の描いた修性院の庭。
門前の六阿弥陀道側から道灌山(どうかんやま)を望んだところ。
庭園には桜、ツツジが植栽され、崖上に続く道も描かれ、裏門もありますが、今ではこの道も裏門も失われています。
左上の堂は、三十番神堂(三十番神は、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のこと。現・善性寺の堂/荒川区東日暮里5丁目)ですが、第二次世界大戦の空襲で焼失しています。

修正院南側の坂道は東京では有名な富士見坂ですが、今でも富士山は見えるものの、マンションに少し隠れて、往時の姿を失っています。

修性院
名称 修性院/しゅうしょういん
所在地 東京都荒川区西日暮里3-7-12
関連HP 荒川区公式ホームページ
電車・バスで JR・東京メトロ千代田線西日暮里駅から徒歩5分
問い合わせ 修性院 TEL:03-3823-0873
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
青雲寺

青雲寺

江戸時代の中頃から「日暮の里」(ひぐらしのさと)といわれ東京都荒川区西日暮里にある臨済宗妙心寺派の寺、青雲寺。江戸時代に花見の場所として賑わったことから、「花見寺」とも呼ばれ、周辺の月見寺(本行寺)、雪見寺(浄光寺)とあわせて、江戸時代の行

長安寺

長安寺

東京都台東区谷中にある臨済宗妙心寺派の禅寺が長安寺(ちょうあんじ)。江戸で最古の七福神巡りという『谷中七福神』の寿老人を祀っています。長安寺の寿老人像は徳川家康の寄進と伝えられる等身大の寄木彫刻で、左脇に鹿を従えた座像です。墓地には狩野芳崖

谷中七福神

江戸・東京で最古の七福神めぐり 谷中七福神

東京でもっとも歴史がある七福神めぐりが『谷中七福神』(やなかしちふくじん)。JR田端駅から上野駅にかけて、7つの寺を歩いて巡礼する手軽な新春開運の散策ルートになっています。七福神めぐりは、社寺が混ざることも多いのですが、谷中はすべて寺。御朱

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ