ありま展望台

ありま展望台

東京都神津島村、神津島の前浜の南、前浜越しに天上山を眺める絶景の展望台がありま展望台。神津島港から歩くと40分ほどかかりますが、その景観は汗と疲れを忘れ去るほど。展望台にある十字架は、大島、新島を経て神津島に島送りとなった、オタア・ジュリア(ジュリアおたあ)を偲んで立てられたもの。

オタア・ジュリアの十字架の立つ絶景展望台

ありま展望台
正面に日本アルプスのような山容の天上山を眺望

オタア・ジュリア(ジュリアおたあ)は朝鮮の両班(ヤンバン=支配階級)の娘といわれ(出自は定かでありません)、豊臣秀吉の朝鮮出兵・文禄の役で、保護され(当時3歳前後の少女)、キリシタン大名・小西行長の妻・菊姫(洗礼名・ジュスタ) のもとで暮らし、肥後国天草郡志岐(現・熊本県天草郡苓北町志岐)のイエズス会修道院長ペドロ・モレホン神父の洗礼を受けてキリスト教徒に。
関ヶ原合戦後は、駿府城の大奥で、家康側室の侍女になっています。
キリシタン棄教の要求を拒否、家康の側室となることを拒んだなどの罪で、慶長17年(1612年)の天領に対するの禁教令で駿府を追われ、慶長18年(1613年)の伴天連追放之文(バテレン追放令)で遠島となり、伊豆・網代(あじろ)から伊豆諸島の流されました。
伊豆大島で30日間滞在した後、15日間新島で過ごし、さらに神津島へと流刑になっています。

徐々に遠くの島に流されたのは、家康や幕府の棄教と引き換えの赦免案を拒否した結果とも、島で頑なにキリスト教を守ったことから、島役人が島人に悪影響があると考えたのかもしれません。

その後は、大坂に暮らし、最後は長崎で余生を送ったとフランシスコ・パチェコ神父の書簡( 1622年2月15日付「日本発信」)にはありますが、神津島の郷土史家が、オタア・ジュリアは神津島で没したと主張したことがあり(「日本発信」が発見される以前です)、神津島もゆかりの島のひとつ。

イエズス会、大英博物館が所蔵する宣教師らの書簡からも、網代を発つ際の嘆きなど、オタア・ジュリアの名が数多く見つかっているので、赦免され最後が長崎暮らしだったことは確実視されています。

ありま展望台からは冬季など快晴で空気の澄んだ日には、大海原越しに伊豆半島、富士山、南アルプスを眺望。

ありま展望台
名称 ありま展望台/ありまてんぼうだい
所在地 東京都神津島村鴎穴
関連HP 神津島観光協会公式ホームページ
電車・バスで 神津島港から徒歩40分
ドライブで 神津島港から約2.5km
駐車場 5台/無料
問い合わせ 神津島観光協会 TEL:04992-8-0321/FAX:04992-8-0323
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
オタア・ジュリアの十字架

オタア・ジュリアの十字架

東京都大島町、伊豆大島の南東部、カキハラ磯の北、筆島を眼前にする海岸にあるのがオタア・ジュリアの十字架。慶長17年(1612年)、神津島へ遠島になった家康の側室付きの侍女オタア・ジュリア(ジュリアおたあ)に因んだもの。オタア・ジュリアの波

 

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