東京都中央区(西側)と墨田区(東側)の間を流れる隅田川(旧・大川)に架る橋が両国橋。貞享3年(1686年)に利根川東遷で武蔵・下総国境が変更されるまでは、現在の墨田区側が下総国だったため、両国橋という名が生まれています。現在の橋は、昭和5年、関東大震災からの帝都復興で架橋された橋です。
帝都復興で隅田川に東京市が架橋したゲルバー橋
初代の両国橋は、万治2年(1659年)もしくは寛文元年(1661年)、隅田川では千住大橋に次いで、2番目に架橋された橋。
防御的な意味合いで隅田川の橋は千住大橋を除いて架橋が許されませんでしたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火の際、橋がないことで多くの人が逃げ場を失ったという反省、さらに幕府の安定から、両国橋が架けられたのです。
当初は大橋が正式名で、両国橋は俗称でしたが、元禄6年(1693年)、隅田川3番目の橋として新大橋が架橋されたため、両国橋が正式名に採用されています(その時点では、すでに東岸も武蔵国)。
明治8年に架橋された最後の木橋は、明治30年8月10日の花火大会の最中に、あふれんばかりの花火見物の客が橋に押し寄せ、欄干が崩れ落ちて、「数十人は箕より豆の落つるが如く一度に川中に墜落し其儘溺死をとぐるもあり橋下の船又は橋柱に身体を打ちつけて重軽傷を負へるものあり、ソレ橋が落ちた、欄干がおちたと泣く声喚く声すさまじく、橋上の人、橋下の船は乱れに乱れ狂ひに狂ひ今迄の歓楽境は忽ち化して修羅場となり」(『時事新報』)という、橋の崩落事件が起こっています。
この事件を受けて、現在の両国橋の20mほど下流に鉄橋(曲弦トラス3連桁橋)が架け替えられ(旧両国橋・広小路跡という表示があります)、明治37年11月14日に開通式が行なわれています。
この橋は大正12年9月1日の関東大震災でも大きな被害がなく、残りましたが、帝都復興で国が架橋した隅田川六大橋(相生橋、永代橋、清洲橋、駒形橋、言問橋、蔵前橋)とともに現在の「ゲルバー橋」(カンチレバー橋)に架替えられています。
橋長164.5m、幅員24.0mで、昭和7年5月18日竣工。
東京市が発注し、石川島造船所の施工で、言問橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、白鬚橋とともに東京都の東京都選定歴史的建造物になっています。
「ゲルバー橋」(カンチレバー橋)とは、 ドイツの土木技術者ゲルバーが考案した架橋方法で、橋脚と橋脚の間の桁(けた)に蝶番(ちょうつがい)の働きを有したヒンジ(継ぎ目)を設けた橋で、架橋当時は、隅田川の言問橋(ことといばし)、大阪の天満橋(てんまばし)とともに「日本三大ゲルバー橋」と呼ばれていました(現在では大阪の港大橋、東京ゲートブリッジなどさらに巨大なゲルバー橋があります)。
明治37年架橋の鉄橋は、3連トラスのうち1連が亀島川の最下流、南高橋(土木学会選奨土木遺産)に転用され、現存しています。
両国橋近くには、神田川の河口があり、柳橋が架かっているほか、東京水辺ライン両国発着場、両国国技館があります。
また両国橋周辺の隅田川の岸辺には隅田川テラスが整備され、散策にも絶好。
両国橋 | |
名称 | 両国橋/りょうごくばし |
所在地 | 東京都中央区東日本橋2〜墨田区両国1 |
関連HP | 東京観光財団公式ホームページ |
電車・バスで | JR・都営地下鉄両国駅から徒歩5分 |
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