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言問橋

言問橋

東京都台東区(西岸)と墨田区(東岸)の間を流れる隅田川(旧称・大川)に架る橋が、言問橋(ことといばし)。関東大震災後、帝都復興で内務省復興局(帝都復興院)が担当した6橋(隅田川六大橋)のひとつで、震災以前は「竹屋の渡し」(向島の渡し、待乳の渡し)という隅田川の渡船場でした。

帝都復興で架橋された隅田川六大橋のひとつ

もともと、震災前は橋がなく、震災復興で計画された環状第3号線(現在は国道6号、水戸街道の橋)。
橋長238.7m、幅員22.0mで、大正14年5月11日着工、昭和3年2月10日竣工。
両岸が震災復興三大公園の隅田公園(東岸は旧水戸藩下屋敷)というロケーションですが、東京大空襲の際には多くの人が焼夷弾で命を落としています。

隅田川の橋梁群の計画・設計の中心となって活躍したのが鉄道省出身の太田圓三、田中豊ですが、言問橋に関しては、実際の設計は東京市復興局橋梁課・岩切良助が担当。
施工は、東京市復興局で、橋桁の製作は勝鬨橋と同じ、横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)です。

景観に映えるアーチ橋は、軟弱な地盤のため、架けることができないため、ドイツの土木技術者ゲルバーが考案した架橋方法の「ゲルバー橋」(カンチレバー橋)を採用。

橋脚と橋脚の間の桁(けた)に蝶番(ちょうつがい)の働きを有したヒンジ(継ぎ目)を設けた橋で、当時、鈑桁として国内では前例がない中央支間67.2mの3径間ゲルバー鈑桁橋だったため、隅田川の両国橋、大阪の天満橋(てんまばし)とともに「日本三大ゲルバー橋」と呼ばれていました(現在では大阪の港大橋、東京ゲートブリッジなどさらに巨大なゲルバー橋があります)。

「言問橋は直線の美しさ」と、川端康成も断言

各橋のデザインについては、地形的制約や地盤条件、周囲からの景観などを勘案し、帝都の都市景観にふさわしいデザインとして個別に決定され、実際の設計も別個の設計者が担っています。

「ゆるやかな弧線に膨らんでいるが、隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ」(川端康成『浅草紅団』)というように、曲線的で優美な清洲橋に対して、直線美を感じる橋となっています。

両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、白鬚橋とともに東京都の東京都選定歴史的建造物になっていますが、選定の理由も「帝都復興計画で初めて架設された。直線的で力強いデザインが特徴。橋上内外の眺望と景観を考慮して設計された」ため。
また橋の上(西側)、橋周辺の隅田川テラス(隅田川沿いに設置されたプロムナード)は、東京スカイツリーの撮影スポットになっています。
とくに江戸通りと言問通りの言問橋西交差点は、言問橋の正面に東京スカイツリーを仰ぐ台東区もイチオシのビュースポット。

ちなみに隅田川に震災復興橋梁として架けられた橋は、下流から相生橋、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋(うまやばし)、駒形橋、吾妻橋(あづまばし)、言問橋(ことといばし)の9橋で、被害を受けなかった新大橋を含めて「隅田川十大橋」と称されています。
このうち、帝都復興院(後に内務省復興局)が担当したのが、相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋の6橋で、ほかは東京市が担当。

言問橋
名称 言問橋/ことといばし
所在地 東京都墨田区向島1〜台東区浅草7・花川戸2
電車・バスで 東武鉄道・東京メトロ・都営地下鉄・つくばエクスプレス浅草駅から徒歩7分。東武電鉄とうきょうスカイツリー駅から徒歩10分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

隅田公園|墨田区

隅田公園は隅田川の両岸、台東区浅草、花川戸、今戸と墨田区向島にまたがる公園。桜並木は、8代将軍・徳川吉宗の命で植栽された桜がルーツ。とはいえ当時の桜は、ソメイヨシノではありません。公園となったのは大正12年、関東大震災の帝都復興事業の一環で

両国橋

東京都中央区(西側)と墨田区(東側)の間を流れる隅田川(旧・大川)に架る橋が両国橋。貞享3年(1686年)に利根川東遷で武蔵・下総国境が変更されるまでは、現在の墨田区側が下総国だったため、両国橋という名が生まれています。現在の橋は、昭和5年

千住大橋

東京都足立区(北岸)と荒川区(南岸)の間を流れる隅田川に架る国道4号(日光街道)の橋が千住大橋。文禄3年(1594年)、徳川家康の関東転封に伴い、隅田川に最初に架けられた橋がこの千住大橋です。現在の旧橋(国道4号北行)は関東大震災からの帝都

白鬚橋

東京都荒川区、台東区・墨田区の間を流れる隅田川に架る歴史ある橋が白鬚橋(しらひげばし)。明治通りと通称される東京都道306号(王子千住夢の島線)の橋で、橋名は東岸の白鬚大明神(現・白鬚神社/墨田区東向島)に由来します。つまり、「ひげ」は、髭

中央大橋

中央大橋は、八重洲通り(東京都道463号上野月島線中央大橋支線)が通る隅田川に架かる橋で、その名の通り、中央区の新川2丁目と佃1丁目を結んでいます。隅田川では千住汐入大橋(平成18年架橋)に次いで新しい橋で、平成5年8月26日、レインボーブ

新大橋

隅田川をまたぐ新大橋通り(東京都道・千葉県道50号東京市川線)に架かる橋。中央区日本橋浜町2・3丁目と江東区新大橋1丁目を結ぶ橋で昭和52年に完成。もともとは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)に当時「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋と

清洲橋

清洲橋(きよすばし)は、関東大震災の復興事業で造られた全長186.2mの自碇式吊橋(じていしきつりばし)で、昭和3年に完成。永代橋(えいだいばし)とともに、隅田川を代表する美橋として知られ、河口に位置する永代橋が男性的で雄大なデザインである

勝鬨橋

隅田川最下流に位置する勝鬨橋(かちどきばし)は、昭和15年に東京市で開催予定で幻となった「紀元2600年記念日本万国博覧会」のメインゲートとして計画。昭和15年、中央が可動式のアーチ橋として完成した、全長246mの跳開橋です。かつては橋の中

永代橋

清洲橋とともに隅田川を代表する美橋として有名な永代橋は、関東大震災後の帝都復興事業として、大正15年に竣工。全長185mのタイド・アーチ橋で、ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ橋(Ludendorffbrücke)をモデルに、隅田

駒形橋

吉原通いの遊び人が使う代表的な渡しだったのが隅田川にあった「駒形の渡し」。黄昏(たそがれ)時に、舟を降りた粋人が、土産の紅などを購入して吉原へ向かいました。そんな「駒形の渡し」ですが、関東大震災後の復興計画で、昭和2年6月25日に駒形橋が架

吾妻橋

1774(安永3)年10月17日に隅田川に架けられた歴史ある橋。隅田川の俗称である大川の名を取って大川橋と称していましたが、江戸の東にあるために町民たちから「東橋」と呼ばれ、吾嬬神社への参詣道でもあることから吾妻橋になりました。現在の橋は関

蔵前橋

東京台東区蔵前1丁目(西岸)と墨田区横網1丁目(東岸)の間を流れる隅田川(旧称・大川)に架る橋が蔵前橋(くらまえばし)。関東大震災後、帝都復興で国が架橋した6橋のひとつで、大正13年9月に着工、昭和2年11月26日竣工の橋。復興局が蔵前橋通

牛嶋神社

東京都墨田区、言問橋(ことといばし)の東詰、隅田公園に隣接して建つのが、牛嶋神社(うしじまじんじゃ)。貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師)が創建したという古社で、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈以前は牛御前王子権現杜(うしごぜんおうじごんげん

相生橋

東京都中央区・佃島(つくだじま/西岸)と江東区・越中島(東岸)の間を流れる隅田川(旧称・大川)の派川(春海運河)に架る橋が、相生橋(あいおいばし)。橋の中ほどには中の島があり江東区立中の島公園が整備されています。現在の橋は、平成10年12月

厩橋

東京都台東区(西岸)と墨田区(東岸)の間を流れる隅田川に架るレトロな橋が、厩橋(うまやばし)。現存する橋は、関東大震災後の昭和4年9月、帝都復興計画に基づいて東京市復興局が架橋した橋。地盤の良さを反映して、隅田川で唯一の3連アーチ橋です。帝

隅田川六大橋とは!?

大正12年9月1日に発生した関東大震災後の帝都復興事業で帝都復興院(大正13年2月25日以降は内務省復興局)が隅田川に建設した相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋の6橋は景観にも配慮され、デザイン的にも優れた橋で、隅田川六大橋と称

東京のシンボル 震災復興橋梁とは!?

関東大震災後の帝都復興計画で、隅田川には恒久橋として上流から言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、清洲橋、永代橋、相生橋の9橋が架けられました(相生橋は、平成10年に新橋に架け替えられています)。つまり現存する8橋が、隅田川に架かる

 

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