東京都台東区谷中7丁目、都営谷中霊園に囲まれた寛永寺墓地にあるのが、徳川慶喜の墓。神式で埋葬されたため、円墳状の墓で、徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜とその妻・美賀子の墓が並んでいます。現在の谷中霊園一帯は江戸時代には、感応寺(現・天王寺)の境内地でした。
最後の将軍・徳川慶喜は神式の円墳で埋葬
徳川慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)、二条城で大政奉還を明治天皇へ奏上。
王政復古の大号令に反発する旧幕府側は、戦闘態勢となり、戊辰戦争が勃発しますが、鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、徳川慶喜は開陽丸で江戸に退却。
徳川慶喜自ら政府への恭順を主張し、勝海舟と西郷隆盛の会談の結果、江戸城の無血開城が実現します。
明治維新で謹慎が解かれると、徳川慶喜は駿府(静岡市)に隠棲し、10男11女をもうけ、明治30年になって東京に戻り、巣鴨に暮らしています。
明治31年3月2日、皇居に参内して明治天皇の拝謁を受け、巣鴨駅の建設の喧騒から逃れるために明治34年に小石川に転居。
明治35年6月3日、特例措置で華族の最高位である公爵に叙せられています。
大正元年にはダイムラーの自動車に乗るなど、新しいものが好きな晩年も徳川慶喜らしさをみせていますが、大正2年11月22日、風邪を患って没(満76歳)。
公爵を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため、葬儀はそれまでの徳川将軍家の仏式でなく神式で行なうよう遺言を残し、一般皇族と同じような円墳が築かれています。
徳川慶喜の墓 | |
名称 | 徳川慶喜の墓/とくがわよしのぶのはか |
所在地 | 東京都台東区谷中7-2 |
関連HP | 台東区公式観光情報サイト |
電車・バスで | JR・京成日暮里駅から徒歩6分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 谷中霊園管理所 TEL:03-3821-4456 |
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