小塚原刑場跡(延命寺・首切り地蔵)

小塚原刑場跡(延命寺・首切り地蔵)

東京都荒川区南千住2丁目にある浄土宗の寺が、延命寺。昭和57年、小塚原刑場の傍らに開かれた小塚原回向院から分院独立し開山した寺で、境内には首切り地蔵と呼ばれる地蔵尊が祀られています。一帯は江戸時代に江戸に2ヶ所あった江戸のお仕置場(刑場)、小塚原刑場の跡です。

罪人の斬首を見守った首切り地蔵

品川の鈴ヶ森刑場とともに、江戸に2ヶ所あったお仕置場(刑場)のひとつが小塚原刑場。
慶安4年(1651年)に設置された刑場は、間口60間(108m)、奥行30間余(54m)で、明治6年に廃止されるまで、多くの罪人が磔(はりつけ)、斬罪(ざんざい=首切り)、獄門(首を斬って公衆にさらす刑)などで処刑されています。

天保3年8月19日(1832年9月13日)には大名屋敷を専門に荒らし義賊伝承が残る鼠小僧次郎吉が市中引廻しの小塚原刑場で処刑(斬首の獄門)されています。

首切り地蔵は、小塚原刑場で処刑された死者、日光街道で行き倒れになった人の菩提を弔うため、寛保元年(1741年)に建立されたものです。
像高は1丈2尺(3.6m)で、浄心が願主となり、木場の深川伊八らの寄進で造立。
石工は、大坂西横堀・中村屋半六で、本体25個、台座8個の花崗岩を組み合わせて建立しています。
台座には「天下泰平 国土安寧」と刻まれることから、無縁仏の菩提を弔うことで、天下泰平を願うために建立したということがわかります(明治20年頃までは、処刑された人の親族たちが手を合わせる姿があったとも)。

明治28年、隅田川駅(貨物駅)開設の鉄道敷設工事のため現在地に移設されたもので、往時には隅田川貨物線の南側に安置されていました。

首切り地蔵の名がありますが、地元では延命地蔵と呼ばれ、首のない地蔵ではなく、斬首を見守った地蔵。

東日本大震災の際に倒壊したことで、解体復元工事が行なわれ、その際に、胎内から火葬骨、一字一石経、古銭(寛永通宝、文久永宝など)などが見つかっています。

『解体新書』誕生のきっかけとなった小塚原刑場での刑死者腑分

解体新書

明和8年3月4日(1771年4月18日)には『ターヘル・アナトミア』(ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスによる解剖学書のオランダ語訳書)を翻訳するにあたって、その正確性を確認するため、杉田玄白(すぎたげんぱく/若狭小浜藩医)、中川淳庵(なかがわじゅんあん/若狭小浜藩医)、前野良沢(まえのりょうたく/豊前中津藩医)らが小塚原刑場での刑死者の腑分(ふわけ=解剖)に立ち会っています。

その翌日から『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業が始まり、数冊の洋書を参考にして『解体新書』の出版へとつながるのです。

解体新書
小塚原刑場跡(延命寺・首切り地蔵)
名称 小塚原刑場跡(延命寺・首切り地蔵)/こづかはらけいじょうあと(えんめいじ・くびきりじぞう)
所在地 東京都荒川区南千住2-34-5
関連HP 荒川区公式ホームページ
電車・バスで JR・東京メトロ南千住駅から徒歩2分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 産業経済部観光振興課観光振興係 TEL:03-3802-3111
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
鈴ヶ森刑場

鈴ヶ森刑場

江戸の入口には東海道沿いの鈴ヶ森刑場(現・東京都品川区南大井)と日光街道沿いの小塚原刑場(荒川区南千住2丁目)、八王子・浅川河原(八王子市大和田町)の大和田刑場と3ヶ所の処刑場がありましたが、慶安4年(1651年)に東海道沿いに設置された刑

 

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