四天王とは、東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天という具合に仏法僧を守護している四神のこと。転じて徳川四天王は、仏法守護の四神のように、徳川家康を守り、徳川幕府を開くまでに尽力した酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政のことです。
酒井忠次
生誕年:大永7年(1527年)
生誕地:三河国・井田城
所在地:愛知県岡崎市井田町、城山公園
父母:酒井忠親、母は不詳
主な居城:三河国・吉田城(現・愛知県豊橋市)
経歴:徳川家康が人質として今川義元の駿府に赴く際に同行
桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、今川氏の支城・吉田城を攻略
三方ヶ原の戦いで活躍、家康が浜松城へ逃げ帰ってきた際には太鼓を打ち鳴らして鼓舞(「酒井の太鼓」)
家康の嫡子・松平信康が信長に武田勢との内通を疑われた際には、安土城で申し開きを行ないますが、失敗して信康は二俣城で切腹
信長没後の小牧・長久手の戦いでも活躍し、羽黒の戦いで森長可を敗走させています
天正16年(1588年)に酒井家次に家督を譲って隠居しますが、他の徳川四天王の後継が10万石なのに対し、3万石しかなく信康事件が尾を引いたとも
没年月日:慶長元年10月28日(1596年12月17日)
死没地:京・桜井屋敷(徳川家康が秀吉に「臣下の礼」を取るために聚楽第に上った際、豊臣秀吉から拝領した屋敷)
墓所:知恩院
戒名:先求院天誉高月縁心居士
子孫:出羽庄内藩17万石と譜代屈指の大身に出世
本多忠勝
生誕日:天文17年2月8日(1548年3月17日)
生誕地:三河国・西蔵前城
所在地:愛知県岡崎市西蔵前町(遺構は現存せず)
父母:本多忠高、小夜(植村氏義娘)
主な居城:大多喜城、桑名城
経歴:幼い頃から徳川家康に仕え、13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦・大高城兵糧入れで初陣を飾り、元服
三河一向一揆では多くの一族が一揆軍に与したなかで徳川方について一揆を鎮圧
元亀元年(1570年)、姉川の戦いでは、家康の本陣へと迫る朝倉軍1万に対し、無謀にも単騎駆けをを行ない、結果として家康軍の奮起を生んで、朝倉軍を撃破しています
三方ヶ原の戦いでは山県昌景を撃退
天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正8年(1580年)の高天神城奪還戦にも参戦し、活躍
手勢のみで堺滞在中に本能寺の変が勃発、明智勢が迫る中、「伊賀越え」を進言
小牧・長久手の戦いでも勇猛果敢に徳川軍の窮地を救い、敵将・豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛されています
家康の関東入封後は、安房国の里見氏に対する備えで大多喜城を居城に
関ヶ原の合戦後、伊勢国桑名へ移り桑名城を築城
没年月日:慶長15年10月18日(1610年12月3日)
死没地:桑名城
所在地:三重県桑名市吉之丸
墓所:浄土寺(桑名市清水町)
戒名:西岸寺殿前中書長誉良信大居士
子孫:桑名藩主から姫路藩主、大和国郡山藩主、陸奥国福島藩、姫路藩、越後国村上藩、三河国刈谷藩、下総国古河藩、石見国浜田藩、三河国岡崎藩
榊原康政
生誕年:天文17年(1548年)
生誕地:三河国・上野上村城
所在地:愛知県豊田市上郷町(遺構は現存せず)
父母:榊原長政、母は道家氏の出自
主な居城:館林城
経歴:13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓に
三河一向一揆鎮圧で活躍し、家康の康をもらって康政を名乗り、元服後に本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢
姉川の戦いで武勲をあげ、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いでも家康を守備し、高天神城の戦いでは先陣を務めています
本能寺の変後の堺からの逃走(伊賀越え)にも帯同
織田信長没後の小牧・長久手の戦いでは森長可、池田恒興を討ち死にさせ、秀吉との和睦後は家康の上洛に同行
家康が関東に移封されると関東総奉行として監視役となり、館林城を築城して居城に
関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、関ヶ原に遅参
合戦後、老中に就任、水戸への加増転封を断った後、館林にて死没
没年月日:慶長11年5月14日(1606年6月19日)
死没地:館林城
所在地:群馬県館林市城町3
墓所:善導寺(群馬県館林市)
戒名:養林院殿前大守職上誉見向大禅定門
子孫:館林藩主、陸奥国白河藩主、播磨国姫路藩主、越後国村上藩主、姫路藩主、越後国高田藩主
井伊直政
生誕日:永禄4年2月19日(1561年3月4日)
生誕地:遠江国・祝田(ほうだ)
所在地:静岡県浜松市北区細江町中川
父母:井伊直親、花(松平康親娘、徳川家康養女)
主な居城:高崎城、佐和山城、彦根城
経歴:出生時の浜名湖北部は、三河の徳川、駿河の今川、甲斐の武田の勢力争いの最中で(父・井伊直盛は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死)、7歳のときには暗殺計画もあったため出家して三河国の鳳来寺に
天正3年(1575年)、家康に認められて井伊家に戻り、家康の小姓に
22歳で元服し直政と名乗り、元服直後の本能寺の変で、家康に帯同して伊賀越えで岡崎に帰還
武田氏滅亡後、武田家の遺臣を配下にして士大将に(山県昌景の朱色の軍装を継承して、井伊の赤備えが誕生)
家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚
小牧・長久手の戦いで井伊の赤備えが活躍し、勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され恐れられるように
聚楽第で家康が秀吉と対面する際には、唯一直政のみが昇殿を許され、徳川家臣の中でも最も高い格式の重臣に
家康が関東に移封されると箕輪城を廃し、高崎城を築城
関ヶ原の戦いでは、東軍指揮の中心的存在で、全国の諸大名の懐柔なども行なっています
徳川政権下では、西国への抑え、京の監視として佐和山城に配され、佐和山城を廃して、近世的な城郭として彦根城を築城を計画(計画中に死没)
没年月日:慶長7年2月1日(1602年3月24日)
死没地:佐和山城(彦根城築城途中に没)
所在地:滋賀県彦根市古沢町
墓所:長松院(滋賀県彦根市)、龍潭寺(彦根市、静岡県浜松市)ほか
戒名:祥壽院殿清凉泰安大居士
子孫:明治維新まで代々にわたって彦根藩主
譜代大名筆頭として、井伊直澄、井伊直該、井伊直幸、井伊直亮、井伊直弼と5代6度(直該が2度、井伊直孝、井伊直澄の大老就任は諸説あり定かでありません)の大老職に就任
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