『魏志倭人伝』には3世紀の倭の女王の都が置かれた邪馬台国(やまたいこく)を中心に、多くの国々が存在したことが記されています。対馬、壱岐をへて海路、北九州に至り、不彌国(ふみこく)から再び「水行二十日」という長旅で投馬國(とうまこく、つまこく)に至っています。
航海日数20日は、瀬戸内航行の半分くらいの行程
『魏志倭人伝』では不彌国から再び海路となります。
この不彌国に関しては「宇美を中心とした糟屋地域説」(福岡県宇美町一帯)と「嘉穂地域説」(福岡県飯塚市)がありますが、船出したのは博多湾あるいは遠賀川河口あたりということになります。
不彌国から投馬國へは、
「南至投馬國水行二十日」。
(南、投馬国に至る。水行二十日である)。
つまり、20日にわたる航海で投馬國に至るというのです。
この長旅ゆえに、投馬國に関しては諸説あって定かでありません。
千里が実際には50km〜60kmなので、20日という日数もサバ読む必要性があるかもしれません。
時代は下がりますが、『日本書紀』によれば、斉明5年(659年)の遣唐使船2隻は、7月3日に難波津(現・大阪港)を出航、8月11日には筑紫の大津(博多港)を出立し、9月13日に百済(くだら=朝鮮半島南西部にあった古代国家)の南畔の島に到達しています。
瀬戸内海航路でさえ、風待ちなどもあって40日近くもかかっているので、20日という日数を信じれば、距離的にはちょうどその半分くらいということに。
投馬國を「つまこく」と読むとすると、宮崎県西都市妻には都萬神社(つまじんじゃ)があり、近くには九州最大の前方後円墳である女狭穂塚(めさほづか)のある西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)も・・・ということから西都市かという説もありますが、この古墳は実は5世紀築造で『魏志倭人伝』の時代とは大きく異なります。
ただし、西都原考古博物館によれば、西都原古墳群は、3世紀末から築かれているとのことなので、西都市という可能性もありえます。
投馬國は、戸数が5万余戸という大国という点、長官が「弥弥(ミミ)」という呼称であることから出雲という説もありますが、こちらもまだ有力な物証がありません。
「南至投馬國」(南のかた投馬國に至る)という『魏志倭人伝』という記述から考えると、出雲は東なので、不一致とする考えもありますが、どうやら魏の使節は日本列島は南北に延びていると考えていたため、東への航海も南へと解釈する説もあります。
夏は日の出が45度ズレるので、東を南と考えたというのが邪馬台国畿内説で、投馬國は瀬戸内海のどこかということになるのかもしれません。
逆に佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)が卑弥呼(ひみこ)の暮らした邪馬台国だと推測すれば、魏の使節は南に向かったということに。
投馬國が特定できれば邪馬台国が九州なのか畿内なのかが明確になることになりますが、それはまだ先になりそうです。
『魏志倭人伝』の旅(7)謎深い投馬國へ! | |
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