埼玉県越谷市、さいたま市岩槻区にまたがる埼玉県営の都市公園「しらこばと水上公園」。そこから南側はかつては田園地帯で、太平洋戦争末期には突貫工事で越谷陸軍飛行場が築かれた場所です。滑走路の跡は「しらこばと水上公園」から南に伸びる直線道路に、カーブを描く誘導路の一部も道路に転用されています。
滑走路と誘導路後の一部は道路に転用
越谷市史には「荻島飛行場」、岩槻市史には「新和飛行場」(にいわひこうじょう)などと記載され、地元では地区の名から論田飛行場(ろんでんひこうじょう=新和村論田にあったことから)、萩島飛行場、新和飛行場とも呼ばれていますが、ここでは越谷陸軍飛行場として紹介します。
太平洋戦争末期、B29の本土爆撃が始まると、首都や関東各地の航空防衛の必要性が高まり、航空燃料の補給のための飛行場も必要となります。
埼玉県萩島村(現・越谷市)と新和村(現・さいたま市岩槻区)にまたがる田園地帯の一角を、陸軍は飛行場用地と定め、国策に協力する「翼賛壮年団」が先頭に立って、昭和19年7月に13軒の農家を強制的に退去させ、勤労奉仕隊などにより突貫工事はスタート。
予定では9月20日に完工でしたが、天候不良と人員や資材の不足で、昭和20年8月上旬にようやく完成しましたが、8月15日に終戦となり、実際に使われることはありませんでした。
終戦直前には戦闘機「雷電」や「屠龍」(とりゅう)が着陸したこと、軟弱な土地だったため飛行機が着陸時に「でんぐり返しとなった」なとという話も伝わっています。
周辺には巨大なコンクリート台跡(使用目的は不明)や掩体壕なども残されていますが、見学に赴くほどではありません。
「事態ハ極メテ重大デアル、サイパンノ全将兵戦死、又(また)大宮島(グアム)ニ敵上陸、誠ニ重大事中ノ重大事態ナリ、一旦緩急アラバ義勇公ニ奉ズベシノ詔命(しょうめい)ヲ畏(かしこ)ミテ、今ゾ我等(われら)神州男子ノ本面目ヲ発揮シ、敢闘ニ死スベキ秋(とき)ダ」
という威勢のいい文句で、農家は強制退去となったのです。
滑走路は現在の「しらこばと水上公園」を北端に南北に1500m、幅は今の道路の10倍の60mあったとのことで、でんぐり返しとなった戦闘機は陸軍東金飛行場(千葉県)を飛び立ち、途中で機体の調子が悪くなったため、越谷飛行場に緊急着陸したことがわかっています。
パイロットは東金に配属された指導教官だったので、技術不足というよりも滑走路の状態が悪かったということに。
完成時にはベニヤ板で作ったダミー飛行機なども並んだそうですが、今や昔話に。
【地図を旅する】vol.23 越谷陸軍飛行場の滑走路、誘導路跡が道路に! | |
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