【地図を旅する】vol.38 宇野港・宇高連絡船遺構

宇高連絡船

高松港・宇野駅(岡山県玉野市)と高松港・高松駅(香川県高松市)を結んだ鉄道省国鉄(後にJR四国)の運航した鉄道連絡船が宇高連絡船。明治43年6月12日、宇野線が開通すると、山陽鉄道を国有化した鉄道省は、宇高連絡船を就航させています。宇野港の岸壁はほぼそのままの形状で残され、宇高連絡船遺構となっています。

本州と四国を結ぶ大動脈、本州側の玄関口

宇野駅
往時の賑わいを今に伝える宇野駅

それまで四国との連絡は、山陽鉄道時代に山陽汽船商社が運航した尾道〜多度津航路、岡山〜高松航路がありましたが、宇高連絡船の運航で、それらの航路は廃止となりました。
明治43年6月12日に就航、昭和5年4月1日、貨車を船に積む貨車航走も始まっています。

戦後は国鉄が運航し、本州と四国を結ぶ大動脈となったのです。
昭和25年には乗客の乗った客車ごと車両航送もスタートしています。

山陽新幹線岡山開業(昭和47年3月15日)以前は、大阪から特急「うずしお」、急行「鷲羽」が宇野駅まで走り、宇高連絡船に接続していました。
東京からも寝台急行「瀬戸」が乗り入れ、四国へと渡ることができたのです。

高速輸送化を受けて、昭和47年11月8日からは「海の新幹線」と銘打ってホーバークラフトによる輸送も開始しています。

宇野港に突き出した2つの岸壁は往時の名残で、「マラソン桟橋」と通称されたもの。
宇高連絡船が宇野港に着くと、宇野駅を目指してダッシュする乗客が多かったために付けられた俗称です(当時の特急、急行は自由席が大部分でした)。

昭和30年5月11日には、濃霧の中、「紫雲丸」と「第三宇高丸」が衝突し、「紫雲丸」が沈没、168人(うち100人は修学旅行生)が犠牲となる痛ましい事故も起きています。
それ以降、香川県内の修学旅行は、宇高航路を利用しないことになったのです。

この紫雲丸沈没事故を受け、本州四国連絡橋の架橋を求める声が高まり、昭和63年4月9日、本四備讃線(瀬戸大橋線)の開業を受けて、廃止されました。
昭和57年3月1日発売の「青春18きっぷ」(発売当初は「青春18のびのびきっぷ」)も利用でき(ホーバークラフトを除く)、多くの旅人を運びました。

本州と四国が橋で結ばれる以前は宇高連絡船、本州と九州が海底トンネルでつながる以前は関門連絡船、本州と北海道が海底トンネルで結ばれる以前は青函連絡船が鉄道連絡船として活躍。
関門連絡船は昭和39年、青函連絡船は昭和63年3月13日まで連絡輸送を担っていたので、最後まで残されたのが宇高連絡船ということに(青函連絡船はわずかの差です)。

宇野港の宇高連絡船遺構(「宇高丸型」宇野航送場跡)は、「鉄道連絡船の歩みを物語る近代化産業遺産群」として経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。

【地図を旅する】vol.38 宇野港・宇高連絡船遺構
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宇野港(四国汽船・直島航路)

宇野港(四国汽船・直島航路)

岡山県玉野市にある宇野港はかつて宇高連絡船で賑わった港です。現在は四国汽船の直島航路、直島(宮浦)行きのフェリーと旅客船、直島(本村)行きの旅客船が発着しています。直島(宮浦)まで、フェリーで20分、旅客船で15分の船旅。直島(本村)までは

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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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