『魏志倭人伝』は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。3世紀末に西晋の陳寿が記した3世紀の日本を知る貴重な史料です。朝鮮半島から対馬を経て「邪馬台国」(やまたいこく)への道筋ですが、倭国最初の上陸地が對馬國、現在の長崎県対馬(つしま)です。
対馬は大陸とのインターフェイスだった!
最初に登場するのが對馬國(現在の長崎県対馬市)。
最古の版である紹熙本(しょうきぼん)では對海國と誤記されていますが、紹興本(しょうこうぼん)では「對馬國」と訂正されているので、對馬國で間違いはないということに。
『魏志倭人伝』、邪馬台国時代の呼称がどうだったのかは定かでありませんが、奈良時代の律令制が敷かれた際に対馬国(つしまのくに)となっています。
『古事記』の建国神話には、最初に生まれた島々(大八洲)の1つとして「津嶋」と記されています。日本海に浮かぶ対馬は、明治以前の日本海交易ルートにおいて(明治時代までは日本の物流は、日本海側の方が多かったことが判明)、重要な経由地となっていました。
さらには、古代にも朝鮮半島にもっとも近いという要因から大陸への玄関口として機能していました。
遣唐使も、当初は壱岐、対馬を経て中国に渡るルートでしたが、天智2年8月(663年10月)、朝鮮半島での白村江の戦い(はくすきのえのたたかい=百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の国際戦争)で新羅との外交関係が悪化したため、五島列島を経て東シナ海を渡る危険なルートを採用せざるを得なくなっています。
逆にいえば、3世紀末、『魏志倭人伝』の時代には、この對海國こそが倭の入口、大陸との交流のインターフェース(接点)として機能していたのです(中世以降、朝鮮半島との貿易と外交実務を独占したのも対馬です)。
大陸系の土器が多数出土する三根遺跡が王都!?
『魏志倭人伝』に記される大陸側の出発点(渡海場所)は狗邪韓国(くやかんこく=3世紀中頃、朝鮮半島南部にあった国)。
『三国志』には「倭国の北岸」と記されていますが、『後漢書』では「倭の西北端の国」となっているので、倭国と密接な関係のあった伽耶(かや)などとの関係性も推測されます。
狗邪韓国から對馬國(對海國)への記述は、
「始度一海千余里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴」。
現代語に訳すと「はじめに一つ海を渡る。一千余里。対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ、ひく)で、副官は卑奴母離(ひなもり)。さらに、海に囲まれた島で、山が険しく、深い森が多く道路は獣道のようで、人家は千余戸。良い田んぼはない。海産物を食べて自活し、船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れている」となります。
残念ながら、この対馬国の王都は確定していません。
現在までの発掘調査では、三根遺跡(みねいせき/対馬市峰町三根)・山辺遺跡(やんべいせき)一帯が王都らしい可能性がもっとも高い遺跡となっています。
県立対馬青年の家が建つ小山と、その周辺の位置する住居跡群です。
弥生時代中期後半〜古墳時代初頭(1世紀~4世紀)の大規模な集落の跡で、周辺には弥生後期の墳墓なども多く、朝鮮半島系の土器(1世紀〜7世紀)、中国大陸系の土器、青銅器の副葬品も多数出土しています。
対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあり、出土品からも大陸との交流を示す遺物が多数あり、王都跡らしい雰囲気を醸し出しています。
遺跡南端にあるのが山辺遺跡で、竪穴式住居と高床式建物の柱穴跡が140ヶ所発見され、縄文時代終末期から大規模なムラが生まれ、次第にクニへと成長していったことも推測できます。
『魏志倭人伝』に「無良田」(良い田んぼはない)と記された對馬國ですが、その記述の正確性を裏付けるように三根遺跡からも稲作に関連した遺物は出土していません。
九州北部系や朝鮮半島系の土器の出土が多いことは、「乗船南北市糴」(船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れている)という渡海しての南北交流を裏付けています。
『魏志倭人伝』の旅(1) まずは對馬國に上陸 | |
所在地 | 長崎県対馬市峰町三根 |
場所 | 三根遺跡群山辺遺跡 |
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