江戸時代初期の寛永元年(1624年)頃、摂津・箕面の瀧安寺(現・大阪府箕面市箕面公園)が正月7日間に「富会」と称して名札を突いて3名に福運のお守りを授ける富くじを実施。これが人気となって江戸に飛び火し、幕府財政の窮乏から、官許の富くじを実施(宝くじのルーツとも)。人気となったのが「江戸の三富」です。
宝くじのルーツは、寺社の修繕費用調達
江戸時代、幕府の財政難から、寺社の修繕費用を賄うことができなくなりました。
特定の寺社の富くじの興行を許す方針をとり、許可された興行は「銭富」(御免富)として、隆盛したのです。
5代将軍・徳川綱吉の治世の元禄年間(1688年〜1704年)になると、幕府の機能も整い、幕府支配体制の安定期を迎えていますが、安定とは裏腹に、出費がかさみ幕府財政は窮乏していきます。
そんな経済状況を反映し、寺社の修復費用調達には、あえてギャンブルを官許して、富くじを財源に寺社の修繕を行なうという方針に転換していったのです。
元禄13年(1700年)、第5代将軍・徳川綱吉は谷中七福神のひとつ、感応寺(現・天王寺)に対して「銭富」(御免富)を初めて公認。
感応寺(現・天王寺)も、当初、正五九(1月・5月・9月)の1年に3回の富興行が許されていましたが、延享5年(1748年)には、火災に遭ったことから、再建のために毎月興行を願い出て公許されています。
谷中の墓地(都立谷中霊園)の中央園路にある花屋のことを今でも「お茶屋」と呼ぶのは、富くじに集まる客目当てに茶屋が並んだことに由来します。
感応寺(現・天王寺)と、境内が盛り場で賑わう湯島天神、郊外の行楽スポットとして人気のあった目黒不動(瀧泉寺)の3ヶ所では、毎月1回興行が行なわれ、「江戸の三富」といわれるほどに隆盛します。
享保13年(1728年)にはその過熱ぶりから「富突停止令」が出されていますが、感応寺(現・天王寺)と牛込戸塚・宝泉寺(現・新宿区西早稲田)はその由緒から「富突停止令」後も興行が許されています。
江戸時代の「御免富」(官許の富くじ)は、明和年間から天明年間(1764年~1789年)に第1のピークを、文化9年(1812年)から富くじが過熱して禁止される天保13年(1842年)が第2のピークを迎えています。
文化文政年間(1804年〜1830年)が富くじの最盛期で、官許の富くじが江戸だけで31カ所もあり、2~3日に一度は江戸のどこかで興行しているという盛況ぶりをみせていました。
天保13年(1842年)の天保の改革(老中・水野忠邦 が主導した幕政改革)による禁令まで続けられ、境内を埋め尽くすほど大いに賑わいました。
戦費調達を目的に「勝札」として復活
富くじの富札を販売する前には、「御免御富御仕法」を発行し、富突(富くじ)の発行と主催者、会場、富札の値段、組名と発行枚数、当選本数、当選金を世間に宣伝周知させています。
この方法も、今の宝くじと基本は変わりません。
一般的に最高金額は1000両ほどなので、今の貨幣価値にすれば宝くじの数千万円当選レベルになっています(感応寺の富くじは「第一之富」で100両でした/富に当った場合、その1割は奉納金として感応寺に納める必要があり、手取りは90両)。
全国的に見ると、当選金額は少ない場合には100両、多いものでは3000両というのもあり、さらには、肥後熊本千両富会所、豊前宇佐宮富会所、肥後熊本千両富会所など地方の主催者もいた部分まで、現在の宝くじによく似ています。
「両袖」と呼ばれる前後賞もすでに用意されていたのも、まさに「江戸時代の宝くじ」といった感じなのです。
天保の改革で全富くじが例外なく禁止されたのは、規制緩和によって許可を与えた寺社の数が激増し、ついには富札が売れずに赤字興行となるケースが多発したこと(寺社への助成という当初の目的から逸脱)、興行をめぐる利権の構造が複雑化したこと、庶民の射幸心を煽り、風紀が乱れたことが原因です。
幕府は富くじを禁止しますが、寺社は、地方を中心に「万人講」、「観音講」、「本堂修復講」という講を組織し、さらには頼母子(たのもし)という無尽講(むじんこう=構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散)を組織して、金銭の融通を図るという名目で、「富くじ類似行為」が存続しています。
明治維新とともにこの「富くじ類似行為」も厳しく取締を受け、富くじ(宝くじ)はほぼ、廃絶します。
太平洋戦争末期、昭和20年7月16日、戦費調達を目的に「勝札」として復活する富くじ(宝くじ)ですが、時はすでに敗戦直前。
第2回の発売は、すでに敗戦後の昭和20年10月29日で、「宝くじ」という名の下、戦後復興の資金調達に利用されているのです。
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