和歌山県和歌山市、和歌山駅の東に建つ浄土宗が来迎寺(らいこうじ)。戦国時代にはこの地に、「日本三大水攻め」に数えられる太田城の水攻めで名高い太田城があり、羽柴秀吉率いる大軍に対して雑賀衆(さいかしゅう)が籠城戦を展開しました。来迎寺と隣接する玄通寺一帯が太田城のあった場所です。
雑賀衆太田党の将・太田左近が秀吉の水攻めにあった城館
太田城は、東西250m、南北200mの城域で、周囲に堀を巡らせ、東側に大門を構えていました。
西の橋向丁に建つ大立寺の山門は、太田城の大門を移築したものと伝えられています。
太田城は延徳年間(1489年〜1492年)、紀俊連(きいとしつら)が日前宮の神領を保護するために築いたとされる中世の平城。
紀俊連は神職ながら同時期に秋月城も築城しているので、その背景には雑賀衆(紀ノ川河口を拠点に、水軍も擁した鉄砲傭兵、地侍集団)の勢力拡大があったとも推測できます。
戦国時代の天正4年(1576年)、雑賀衆太田党の将・太田左近(おおたさこん)が改修しているので、この頃にはすでに雑賀衆の手に落ちていたことがわかります。
天正5年(1577年)、織田信長が雑賀城に侵攻する際に、太田左近は信長に協力していますが、信長軍が撤退すると雑賀孫一(さいかまごいち=雑賀党鈴木氏の棟梁、石山合戦でも信長軍を苦しめています)は太田左近と和睦。
信長没後は、太田衆・雑賀衆・根来衆連合軍となって敵対するようになっていました。
羽柴秀吉は根来寺攻略後、矛先を太田城に向けます。
徹底抗戦の姿勢を見せた太田左近(雑賀衆太田党)に対し、羽柴秀吉は太田城への総攻撃を行ないます(兵力は6万兵とも10万兵ともいわれる大軍)。
対する太田衆は、根来衆の残兵を合わせても3000人〜5000人ほど、それでも秀吉軍先陣の精鋭・堀秀政隊3000人は、森に潜む鉄砲隊などに苦戦し、敗退。
羽柴秀吉は、激しい抵抗にあって苦戦を余儀なくされたことで、全長7.2km、高さ5mともいわれる大きな堤を築いての水攻めを敢行します
すでに備中高松城の水攻めで、その手法は経験済みです。
突貫工事で築いたため、秀吉軍にも宇喜多秀家陣に多くの溺死者が出るなど多くの犠牲を払っています。
1ヶ月にもわたる籠城戦が展開しますが、太田左近は蜂須賀正勝のもとに使いをやり、自らの命と引き替えに城兵の助命を嘆願。
その結果、主だった城将53人が切腹し、太田城は開城しています。
和歌山駅東口ロータリーに建立された太田左近像には、「中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物といえるだろう」 と刻まれています。
太田城(来迎寺) | |
名称 | 太田城(来迎寺)/おおたじょう(らいこうじ) |
所在地 | 和歌山県和歌山市太田2-3-7 |
電車・バスで | JR・和歌山電鐵和歌山駅から徒歩10分 |
ドライブで | 阪和自動車道和歌山ICから約3km |
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