江戸本郷の八百屋(やおや)の娘・お七(於七)は、天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、避難した檀家の寺で、小姓のと恋仲に。もう一度火事になれば会えると再建された自分の家に火を放ち、火あぶりという極刑になるという話。悲しい話が東京都文京区本駒込、白山周辺に伝わっています。
八百屋お七の実在を疑う研究者もいますが、記録や墓が残されています
お七処刑の3年後の貞享3年(1686年)、井原西鶴の『好色五人女』で取り上げられて一躍有名になった八百屋お七。
お七の生家は駒込片町(あるいは本郷追分とも)の大きな八百屋(『東京名所図会』によれば父は八百屋久兵衛、文京区の『文京区史跡さんぽ実施報告書』では八百屋太郎兵衛)だったとされていますが、実は、どこまでが史実なのか定かでありません。
お七の恋人の名も『天和笑委集』では生田庄之介、『好色五人女』で吉三郎、馬場文耕の『近世江都著聞集』では山田佐兵衛で近所のならず者・吉三郎が放火をそそのかしと記されています。
文京区の調査では小姓・小堀左門(一説では、佐兵衛、吉三、葺二郎などがある)とあり、こちらもお手上げのようです。
避難した寺も加藤曳尾庵の『我衣』に記される円乗寺(東京都文京区白山)、あるいは井原西鶴の『好色五人女』に記される本駒込の吉祥寺なのか、『天和笑委集』には正仙院と記され、定かでありません。
さらには江戸幕府が作成した判例集『御仕置裁許張』には江戸・市ヶ谷左内坂のお志ちという女が放火未遂の罪で火あぶりの刑になっていることが記録されています。
お七の死後70年ほどで記された馬場文耕の『近世江戸著聞集』には、「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」とあります。
歴史資料としては戸田茂睡の『御当代記』の天和3年の記録に「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記されていて、実はこれが唯一の信憑性の高い記録なのですが、残念ながら江戸幕府の処罰の記録『御仕置裁許帳』にお七の名を見ることができません。
後世に伝わる内容があまりに多様なため、お七の実在を疑う研究家もいますが、『御当代記』は、戸田茂睡自身が見聞したことを記録しているため、ある程度はモチーフとなる実話があり、それを脚色して井原西鶴『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」などが生まれたと推測できます。
さらに、歌舞伎『八百屋お七歌祭文』、歌舞伎『八百屋お七恋江戸紫』、浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』などの題材となり、さらに映画、ドラマ、最近では坂本冬美の『夜桜お七』など、現代においても、語り、歌い継がれているのでしょう。
八百屋お七ゆかりの地(1)吉祥寺
井原西鶴『好色五人女』では吉祥寺が舞台となっています。
八百屋お七ゆかりの地(2)円乗寺
八百屋お七の墓が現存し、寺伝などでもお七が檀家だったと推測されています。
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