最上川舟運の河湊が置かれた山形県大石田町。最上川の河岸(かし=川湊)として本格的に機能を果たすようになるのは近世から。幕府の天領米(村上地方は北日本最大の天領でした)、紅花などの輸送拡大に伴って、寛政4年(1792年)、幕府直轄の大石田舟役所も設けられています。最上川沿いの堤防を修景し、大門・塀蔵が往時の雰囲気を醸し出しています。
天領で収穫された御城米の積載も管理した役所
かつて河岸場として栄えた大石田大橋下流には現在、2.1kmの護岸堤防が整備され、往時の遺構は失われています。
大石田大橋右岸(上流から見て右岸)の川舟役所跡地一帯602mに白壁の堤防壁画(塀蔵を描いた壁画)を築き往時の姿に修景。
さらにヒバ材を使って大門も復元し、安山岩で護岸を修築し、昭和30年代ころまでの雰囲気に修景しているのです。
戦国時代まで、村山から大石田にかけての最上川の蛇行急流は「最上川三難所」と呼ばれる難所でしたが、戦国大名・最上義光(よしあき)がこれを開削。
以来、大石田に河岸(川湊)が整備され、最上川舟運の中核として発展したのです。
川舟役所は寛政4年(1792年)に設置。
最上川の川舟差配役制度が混乱したため、幕府が最上川舟運を直接支配するために設置した役所で、幕府の役人は尾花沢代官所(幕末には寒河江代官所)から1名派遣され、地元採用の役人2人(神部家と遅沢家)がサポートしていました。
川舟役所は明治5年まで設置され、米(御城米・年貢米)、紅花、あおそ、真綿、蝋、漆、えごま油、葉たばこ、雑穀などの下り舟(大石田舟)、塩、茶、砂糖、海産物、木綿、ふるてなどの上り舟(酒田舟)の管理を行ないました。
使われた舟は中央に宿泊できる「苫小屋」(とまごや)を備えた全長18m〜24mほどの平田舟(ひらたぶね)で、米を200俵〜350俵積載できました。
下り舟は酒田まで4日〜5日、上り舟は酒田から14日〜15日を要しましたが、河村瑞賢が西廻り航路(北前船)を開設してから、日本海は江戸時代最大の物流ルートとなったのです。
その出発点ともいえるのが大石田で、川舟役所は重要な機能を負っていました。
名称 | 大石田舟役所跡(大門・塀蔵) |
所在地 | 山形県北村山郡大石田町大石田 |
関連HP | 大石田町公式ホームページ |
ドライブで | 尾花沢新庄道路新庄ICから約3.7km |
駐車場 | 最上川畔の駐車スペースを利用 |
問い合わせ | 大石田町産業振興課商工観光グループ TEL:0237-35-2111/FAX:0237-35-2118 |
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