甲斐善光寺

甲斐善光寺

川中島の合戦で、信州の善光寺焼失を恐れた信玄が、永禄元年(1558年)、御本尊の善光寺如来をはじめ、諸仏・寺宝類を奉遷するために建てた寺が甲府市に建つ甲斐善光寺(かいぜんこうじ)。寺の建つ板垣の郷は、善光寺を建立した本田善光(ほんだよしみつ)を葬送した地と伝えられています(ただし、時代は推古天皇の御代)。

善光寺如来と結縁する「お戒壇めぐり」に挑戦できます!

甲斐善光寺
明和4年(1767年)築の山門も国の重要文化財
甲斐善光寺
武田信玄朱印状などを収蔵展示する宝物館

式名称は定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)で、善光寺が正しい名前ですが、長野の善光寺などと区別するため甲斐善光寺、甲州善光寺、甲府善光寺などと呼ばれています。

第三次川中島の戦いの後、上杉謙信は、信濃善光寺・大御堂本尊の善光寺如来を越後に持ち帰り、直江津(新潟県上越市)に如来堂を建立したところ、直江津が繁栄。
これを見た武田信玄は、善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を府中(甲府)に遷し、善光寺別当の栗田寛久も転居させています。
永禄8年(1565年)に甲斐善光寺の本堂が完成。

天正10年(1582年)、武田家終焉の時には、武田勝頼の家臣、小山田信茂らがこの甲斐善光寺で処刑されたこともありました。
文禄5年(1596年)の慶長伏見地震で、京、方広寺の大仏が倒壊したことから、慶長2年(1597年)、豊臣秀吉は、大仏殿に善光寺如来を勧請。
ところが、秀吉が病に伏したことから、善光寺如来の祟(たたり)ではないかと恐れられ、慶長3年(1598年)、秀吉が死ぬ前日に、甲斐善光寺に戻されています。

江戸時代に、甲斐善光寺は浄土宗に帰依していた徳川氏の庇護を受け、浄土宗甲州触頭となり、徳川家の位牌所として繁栄しました。

武田信玄建立の七堂伽藍は、宝暦4年(1754年)の門前の失火による類焼で惜しくも焼失。
現存する山門、金堂(本堂)は、寛政8年(1796年)の再建で、国の重要文化財。

金堂に安置された本尊は、建久6年(1195年)、尾張の僧・定尊(じょうそん)が、秘仏である信濃善光寺の前立仏として造立したもの。
平成9年からは7年毎に御開帳が行なわれています。

金堂では、長野の善光寺と同じように、暗闇の通路を手探りでたどり、善光寺如来と結縁するための「お戒壇めぐり」に挑戦できます。
また金堂中陣の天井は、吊り天井となっており2匹の龍が描かれていて、これが「日本一の鳴き龍」と呼ばれるもの。
手を打つと多重反響現象による共鳴が起こります。

宝物館では、重要文化財の阿弥陀三尊像など寺宝の見学が可能。

甲斐善光寺
甲斐善光寺

3代目歌川豊国『甲州善光寺境内之図初午』

江戸時代後期の浮世絵師、3代目歌川豊国(香蝶楼豊国、一陽斎豊国)の描いた3枚続きの美人画『甲州善光寺境内之図初午』。
嘉永6年(1853年)の『江戸寿那古細撰記』には「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」と記され、歌川豊国が美人画などの人物画に優れていたと評判だったことがわかっています。
江戸時代の後期には旧暦2月の初午(江戸時代には、この日に子供が寺子屋へ入門)に初午詣り(稲荷詣り)が隆盛していました。

甲州善光寺境内之図初午
甲州善光寺境内之図初午
甲州善光寺境内之図初午

甲斐善光寺 DATA

名称 甲斐善光寺/かいぜんこうじ
所在地 山梨県甲府市善光寺3-36-1
関連HP 甲斐善光寺公式ホームページ
電車・バスで JR身延線善光寺駅から徒歩10分、中央本線酒折駅から徒歩15分、甲府駅からタクシーで12分
ドライブで 中央自動車道甲府昭和ICから約9km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 甲斐善光寺 TEL:055-233-7570/FAX:055-231-0757
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
方広寺・大仏殿跡(大仏殿跡緑地)

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