山梨県甲府市にある中世の山城が要害山城(ようがいやまじょう)。武田氏館、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=現在の武田神社)の詰城(つめのしろ)として要害山に築かれた城で、永正17年(1520年)、武田信玄の父、武田信虎(たけだのぶとら)の築城です。続日本100名城に選定。
武田信玄が生まれたとされる詰城
永正16年(1519年)、武田信虎は居館を石和の川田館(甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移しましたが、いざという時に逃げ込める詰城として要害山城を築いています。
大永元年(1521年)、駿河・遠江守護・今川氏親(いまがわうじちか=今川義元の父)の命を受けた福島正成(ふくしままさしげ)は甲斐に侵攻、結果としては武田信虎に撃退されていますが、その侵攻を受け、身重の正室・大井夫人を要害山城へと避難させ、大永元年11月3日(1521年12月1日)、要害山城で武田信玄が生まれています。
『甲陽軍鑑』、『甲斐国志』によれば、城番は駒井政直(こまいまさなお=信玄、勝頼の2代に渡った家臣で譜代家老衆の侍大将)らが務めています。
武田氏滅亡後、徳川家康の支配を経て、文禄年間(1593年〜1596年)、豊臣秀吉の家臣で、甲斐国24万石を与えられた加藤光泰(かとうみつやす)が穴太積みの石垣を築いています。
天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏は滅亡し、関八州(関東8ヶ国)へ封じられた徳川家康への備えだったとも推測できます。
甲府城の築城開始時期に関しては、徳川家康の支配時代とも、加藤光泰時代ともいわれ、定かでありません。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、甲斐は再び徳川家康の領有となり、甲府城を拡充し、要害山城は廃城になっています。
枡形、曲輪、堀切、見張台と石垣が遺構として現存。
ただし、城に至るまでの案内板がない、主郭以外は整備されていないという状況なので、登城にあたっては注意が必要(ツキノワグマも出没)。
要害山の山裾にある積翠寺(せきすいじ)には武田信玄の産湯を汲んだと伝わる「信玄公産湯の井戸」や産湯天神があります。
要害山城 | |
名称 | 要害山城/ようがいやまじょう |
所在地 | 山梨県甲府市上積翠寺町 |
関連HP | 甲府市公式ホームページ |
電車・バスで | JR甲府駅から山梨交通バス武田神社経由積翠寺行きで13分、終点下車、徒歩15分 |
ドライブで | 中央自動車道甲府昭和ICから約10km、または一宮御坂ICから約17km |
駐車場 | 要害山登山口駐車場(10台/無料) |
問い合わせ | 甲府市観光開発課 TEL:055-237-5702 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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