江戸時代から鉄道開通に至るまで、京都と大阪の物流を支えたのが、淀川の舟運。1964年に長柄可動堰(現・淀川大堰)が完成した後は、舟運は廃絶しましたが、2025年3月16日(日)、淀川大堰脇にパナマ運河式の閘門(こうもん)「淀川ゲートウェイ」の開通式が行なわれ、再び京都〜大阪の水上ルートが確保されました。
淀川大堰による水位差をミニパナマ運河で克服

江戸時代に大坂(現・大阪市)が西廻り航路(北前船)の拠点となり、「天下の台所」として繁栄する大坂と伏見、さらには京を結ぶ水上交通(舟運)が物資の輸送ルートとして確立しました。
もともとは、大坂城、伏見城を築城し、大坂、伏見を拠点とした豊臣秀吉が京都盆地の巨椋池(おぐらいけ)と宇治川の間に太閤堤を築いて分離工事を行ない、伏見を川湊(かわみなと)として整備しました。
こうして伏見城と大坂城は舟運で結ばれるようになり、江戸時代には旅客輸送を含めた水上交通の大動脈となったのです。
旅客輸送は、全長56尺(17m)、幅8尺3寸(2.5m)、定員28人~30人の「三十石船」が伏見(平戸橋、蓬莱橋、京橋、阿波橋)と大坂(八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀)を結び、伏見を夜出て早朝に大坂着という夜行便も多く利用されました。
上り下り合わせて1日320便が運航し、9000人ほどが往来したといわれています。
そんな舟運も鉄道の敷設、さらには道路網の整備で衰退し、1964年に可動堰ができたことで、淀川の可動堰を境に上流と下流に2mもの水位差が生まれたことで完全に終焉を迎えました。
正式名・淀川大堰閘門(よどがわおおぜきこうもん)、通称「淀川ゲートウェイ」は淀川大堰で生じる淀川本流の水位差を克服するため、上流と下流の2ヶ所にゲートを設置、船がゲート内に入ったところで、水位を上下させて船を通過させるというパナマ運河式閘門を採用。
首都圏でも東京都江東区の扇橋閘門(おうぎばしこうもん)がパナマ運河式の閘門で「東京のパナマ運河」と呼ばれていますが、大阪でも淀川と大川(旧淀川)の水位差を克服するために大川に毛馬閘門(大阪市都島区)が設けられ、「ナニワのパナマ運河」と称されてきました。
ただし、毛馬閘門は、大川に設置される閘門なのでこの「淀川ゲートウェイ」は、淀川本流では初となる閘門です。
国土交通省が可動堰横に「淀川ゲートウェイ」を設置したのは、大阪万博を契機に舟運(水上交通)を復活させ、観光需要を増やそうということもありますが、地震などの災害時の輸送手段の確保という大きな目的もありました。
大阪側の拠点となる「十三船着場」も同じ3月16日(日)に完成したので、今後は「伏見発十三行き」の観光船の運航も始まるかもしれません。
3月16日(日)には、その一番船として水上バス「アクアライナー」が「淀川ゲートウェイ」を越えて十三船着場に着岸しています。
「淀川ゲートウェイ」(パナマ運河式の閘門)完成で、京都〜大阪の舟運が復活! | |
所在地 | 大阪府大阪市 |
場所 | 淀川ゲートウェイ |
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