九度山町・善名称院(真田庵)は、『真田丸』真田信繁ゆかりの地

『真田丸』で堺雅人が、『真田太平記』で草刈正雄が演じた真田信繁(真田幸村)。『家康が最も恐れた男 真田幸村』(テレビ東京/平成10年)など映画、テレビ、小説の主人公として人気の真田信繁ですが、生涯で一番長く暮らしたのが、実は紀州(和歌山県)・九度山であることはあまり知られていません。

山門にも六文銭の真田家の旗印が
山門にも六文銭の真田家の旗印が

真田信繁は各地で人質生活を送っている

真田信繁は、永禄10年(1567年)あるいは、元亀元年2月2日(1570年3月8日)の生まれ。慶長20年5月7日(1615年6月3日)に大坂夏の陣で戦没していますが、戦死した年齢は46歳説、49歳説があり、そこから遡って生年を推測しています。
信繁が生きている時代の史料に「真田幸村」の名が使われているものはまったくないので、真田幸村という名は後世の創作。

天正3年(1575年)、長篠の戦いにおいて長兄・真田信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いでいます。
真田信綱・昌輝は武田二十四将に数えられる猛者(もさ)ですが、『真田丸』にはキャスティングすらされていません。というのも、『真田丸』は、天正10年(1582年)、武田家滅亡と同時に物語が始まるから。
真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵。
天正10年(1582年)3月、真田信繁は厩橋城(まやばしじょう=前橋城)に入城した関東管領で織田四天王のひとり、滝川一益(たきがわいちます)のもとで人質になります。その後、信繁は上杉氏のもとで人質生活を送るなどした後、父・真田昌幸(『真田丸』で草刈正雄が、『真田太平記』丹波哲郎が演じた)が秀吉の配下になると、今度は大坂城で人質生活となります。

上田駅前(長野県上田市)にある真田幸村公像
上田駅前(長野県上田市)にある真田幸村公像

関ヶ原の合戦の敗戦で九度山に配流

その後、秀吉の馬廻衆として活躍。関ヶ原合戦を前にした「犬伏の別れ」で、兄の真田信之(信幸)と雌雄を分かち、父・昌幸とともに西軍につきます。

真田昌幸と信繁は居城上田城に籠り、秀忠軍の関ヶ原遅刻を生み出します。
徳川秀忠の初陣で、秀忠に大恥をかかせたのですから、2人には極刑が待っているはずでした。
ところが、真田信之とその舅である本多忠勝の取り成しで、なんとか除名がかない、高野山、そして紀伊国九度山に配流となります。

当初の配流先が高野山(蓮華定院/れんげじょういん=高野山で唯一真田家の家紋使用を認められた宿坊で現存)だったのがなぜ九度山に変わったのかは定かでありません。
現在、九度山町の善名称院(真田庵)が建つ地が真田昌幸の庵跡で、寺は寛保元年(1741年)に大安上人が創建。

寺と真田家を結ぶ直接的な関係はありません
寺と真田家を結ぶ直接的な関係はありません

九度山と高野山を結ぶ「高野山町石道」にも注目を

九度山蟄居中の慶長16年(1611年)に父・真田昌幸は死去。
慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗ります。
真田信繁は、この九度山に14年もの歳月、旅することもなく蟄居しているので、「もっとも長い期間一ヶ所にとどまった地」となっています。

善名称院(真田庵)の敷地内にある真田地主大権現は、真田家の宝物である毘沙門天と真田3代の御霊を合祀したもの。さらに境内には真田昌幸の墓碑と伝わる墓もあります。境内には「真田宝物資料館」もあって、ゆかりの品々を展示。

また九度山には高野山麓の慈尊院(九度山町)から大門を経て奥之院に至る全長約24kmの高野山参道「高野山町石道」(こうやさんちょういしみち)もあり、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部になっています。

真田昌幸・信繁親子が高野山と九度山を結んで歩いた道とも推測されます。

高野山に配流の真田昌幸・信繁親子も歩いた「高野山町石道」
高野山に配流の真田昌幸・信繁親子も歩いた「高野山町石道」
 

善名称院(真田庵) DATA

名称 善名称院(真田庵)/ぜんみょうしょういん(さなだあん)
所在地 和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
時間 9:00~16:00
電車・バスで 南海高野線九度山駅から徒歩10分
ドライブで 西名阪自動車道法隆寺IC、または、阪和自動車道美原北ICから1時間
駐車場 町営駐車場利用/無料
問い合わせ TEL:0736-54-2218

 

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