九州・沖縄は16城が日本100名城に選定。日本三名城に数えられる熊本城が有名ですが、古代に築かれた大野城(おおののき)、秀吉の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城、そして世界遺産となった沖縄の城(グスク)など、大陸との緊張関係や交流、キリスト教の伝来などの歴史を背景にした城が多いのも特長です。
福岡県|筑前国
福岡県にある日本100名城選定の城は、福岡藩の藩庁だった福岡城と、古代の朝鮮式山城の大野城(おおののき)の2城。
福岡城も古代から中世に、外交の拠点だった「鴻臚館」(こうろかん)のあった場所なので、大陸への玄関口、福岡県という土地柄を感じさせてくれます。
福岡城
城跡一帯は、舞鶴公園として整備
所在地:福岡県福岡市中央区城内
旧国名:筑前国(ちくぜんのくに)
築城年:筑前52万石の領主となった初代福岡藩主・黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年がかりで築城
内容:飛鳥・奈良・平安時代の外交施設「鴻臚館」(こうろかん)のあった場所
豊臣秀吉の文禄・慶長の役で2回にわたって攻防戦を繰り広げた韓国・晋州城(チンジュソン・現在の晋州市)を参考に縄張りしたとも
江戸時代の大半、天守はありませんでしたが47の櫓がある名城でした
備考:国の史跡
大野城(おおののき)
日本最古の朝鮮式山城
所在地:福岡県糟屋郡宇美町四王寺・太宰府市太宰府・大野城市瓦田
旧国名:筑前国(ちくぜんのくに)
築城年:天智天皇4年(665年)、大宰府の北の守りとして築城
内容:百済(くだら)滅亡直後の天智天皇2年(663年)、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)に倭国軍を送り、唐・新羅連合軍と激戦を行ないましたが敗戦、緊迫した外交関係を背景に、ヤマト王権が築いた古代の山城
滅亡した百済の技術者が築城を指導した朝鮮式山城で、山上には石垣、土塁、礎石などが現存
備考:国の特別史跡
佐賀県|肥前国
佐賀県にある日本100名城選定の城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の基地となった名護屋城(なごやじょう)、弥生時代の巨大な環壕集落の跡である吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)、そして近世に佐賀藩の藩庁だった佐賀城の3城です。
吉野ヶ里遺跡が「名城」というジャンルなのは、弥生時代にも抗争があり、防備的な機能を有した巨大な集落だから。
城のルーツともいえるのが環壕集落ということに。
名護屋城(なごやじょう)
秀吉が築いた文禄・慶長の役の拠点
所在地:佐賀県唐津市鎮西町名護屋
旧国名:肥前国(ひぜんのくに)
築城年:豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点とするために、天正19年(1591年)の後半から築城が開始
内容:縄張りを黒田孝高(黒田官兵衛)、そして普請奉行を黒田長政(黒田孝高の子)、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが担い、突貫工事の末、わずか数ヶ月で完成
天然の良港である名護屋の港を控え、当時としては大坂城に次ぐ規模の城郭を誇っていました
周囲に諸将が構える118ヶ所の陣屋、最大時には30万人の軍勢が集結し、そしてそれらを支える人口10万人を超える城下町が築かれていたのです
備考:国の特別史跡
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)
3重の壕を巡らした巨大集落は日本における城のルーツ
所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
旧国名:肥前国(ひぜんのくに)
築城年:弥生時代/復元整備対象時期は、弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)
内容:弥生時代の環壕集落としては日本最大とも
吉野ヶ里歴史公園として整備され、98棟の弥生時代の建物を復元
体験プログラムで古代体験も可能
備考:国の特別史跡
佐賀城
佐賀藩鍋島氏36万石の居城
所在地:佐賀県佐賀市城内2-13
旧国名:肥前国(ひぜんのくに)
築城年:戦国大名・龍造寺氏の居城だった村中城を、家臣で後に佐賀藩主となる鍋島直茂、勝茂が近世城郭に拡張し、慶長16年(1611年)に完成
内容:幾重にも外堀を巡らし、万一攻撃を受けた際には主郭以外を水没させ敵の侵攻を防ぐ仕組みで「沈み城」とも
5層(外観4重)の天守を有する近代城郭で、亀甲城とも呼ばれる名城でしたが、明治7年の佐賀の乱で大半を焼失
平成16年に復元された本丸御殿は、「佐賀城本丸歴史館」となっています
備考:佐賀県の史跡
長崎県|肥前国
長崎県内にある日本100名城選定の城は、平戸藩の藩庁・平戸城と、島原藩の藩庁・島原城の2城。
島原城は、キリシタンや農民が圧政から立ち上がった島原の乱(農民一揆的な乱です)の原因ともなった、石高以上に立派な城として知られています。
平戸城
江戸時代には平戸藩松浦(まつら)氏の居城
所在地:長崎県平戸市岩の上町1529
旧国名:肥前国(ひぜんのくに)
築城年:下松浦党の棟梁・松浦鎮信(法印)は、豊臣秀吉の九州平定に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵され、慶長4年(1599年)に築城を開始
内容:三方の海を外堀にした平山城
幕府への配慮から創建当初から天守はなく、二の丸に建てた3重3階の乾櫓(いぬいやぐら)をその代用にしていました
模擬天守の内部は松浦党などの資料を展示する資料館に
二の丸には懐柔櫓、地蔵坂櫓、見奏櫓が復元
島原城
松倉氏・高力氏など4氏19代253年間の居城
所在地:長崎県島原市城内
旧国名:肥前国(ひぜんのくに)
築城年:元和4年(1618年)から7年余りを費やし、肥前日野江藩の藩主となった松倉重政(まつくらしげまさ)が築城
内容:元和4年(1618年)、一国一城令に従い、原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始しましたが、禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する城を新築したため、過重な年貢の取立てに加えて、厳しいキリシタン弾圧を実施
圧政が続いたことから島原の乱が勃発します(島原の乱の結果、松倉勝家は斬首、松倉家は改易に)
備考:島原市の史跡
熊本県|肥後国
熊本県内にある日本100名城は、加藤清正が築いた熊本城、そして相良家670年に渡る居城の人吉城の2城です。
熊本城は明治時代に西南戦争の舞台にもなった城です。
人吉城は鎌倉時代から明治維新に至るまで、相良家が城主という稀有な城。
熊本城
名古屋城、大坂城(大阪城)と並び「日本三名城」のひとつ
所在地:熊本県熊本市中央区本丸1-1
旧国名:肥後国(ひごのくに)
築城年:天正16年(1588年)、肥後半国の領主・加藤清正が6年の歳月をかけて築城
内容:現在残る熊本城の城郭は、加藤清正が築いたものを細川時代に手直ししたもの
天守は西南戦争の2日前に焼失し、現在の建物は昭和35年に再建
備考:国の特別史跡、日本三名城
人吉城
鎌倉時代から明治維新まで相良家670年に渡る居城
所在地:熊本県人吉市麓町
旧国名:肥後国(ひごのくに)
築城年:鎌倉時代の建久4年(1193年)、相良氏が人吉の地頭に任じられた際に築城
内容:鎌倉時代の築城以来、35代670年にわたって相良氏が城主を務めるという稀有な城
球磨川(くまがわ)と胸川(むねがわ)の合流点に築かれ、川を堀とした天然の要害
城跡は、人吉城公園として整備され、平成元年に隅櫓、平成5年に大手門脇多聞櫓と続塀が再建
備考:国の史跡
大分県|豊後国
大分県内で日本100名城に選定されるのは、現在の大分市、府内藩の藩庁・府内城と、岡藩の藩庁・岡城の2城です。
瀧廉太郎の名曲『荒城の月』で知られる岡城は、難攻不落の山城ですが、近世城郭としては実戦経験はありません。
府内城
府内藩2万1000石の藩庁
所在地:大分県大分市荷揚町4
旧国名:豊後国(ぶんごのくに)
築城年:慶長2年(1597年)、石田三成の妹婿・福原直高(ふくはらなおたか)が築城
内容:豊臣方だった福原長堯は、石田三成の失脚で、五大老筆頭の徳川家康により建設途中の府内城を没収され、関ヶ原合戦後に入封した竹中重利が完成させています
かつては海辺に面していたため、白土の塀と、水上に浮かぶような姿から、白色のキジに例えて「白雉城」(はくちじょう)とも
本丸周辺の水堀を埋めて大分城址公園として整備されています
備考:大分県の史跡
岡城
瀧廉太郎の名曲『荒城の月』のモデルとなった城跡
所在地:大分県竹田市竹田
旧国名:豊後国(ぶんごのくに)
築城年:文治元年(1185年)、緒方惟栄(おがたこれよし)が源義経を迎えるために築城(伝承)
近世城郭は文禄3年(1594年)、岡藩初代藩主となった中川秀成(なかがわひでしげ)が3年がかりで
内容:標高325m、周囲は2つの川にはさまれ、阿蘇山の火砕流で形成された断崖絶壁に建っているため、難攻不落の名城
藩政時代には岡藩(竹田藩)の藩庁として機能し、明治維新に廃藩置県まで14代277年間にわたって一度の移封もなく中川氏の治世が続いています
備考:国の史跡、日本さくら名所100選
宮崎県
宮崎県内にある日本100名城は、飫肥藩(おびはん)の藩庁である飫肥城のみ。
伊東氏・島津氏が戦国時代に103年にわたって、城を巡って攻防したこと、藩政時代には伊東氏が藩主を全うしたことは、稀有の例といえるでしょう。
飫肥城(おびじょう)
飫肥藩伊東氏5万1000石の居城
所在地:宮崎県日南市飫肥10-1-2
旧国名:日向国(ひゅうがのくに)
築城年:築城は定かでありませんが、宇佐八幡宮の社人という土持氏(つちもちし=日向国の荘園領主で、日向国北部を中心に勢力を有した)が南北朝時代に築城したという飫肥院が始まり
内容:天正15年(1587年)年に豊臣秀吉に仕えた伊東祐兵(いとうすけたけ)が九州征伐の戦で戦功を認められて旧地である飫肥城に入城
廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで、転封されることなく、一貫して伊東氏が飫肥藩の藩主を務めています
備考:日南市の史跡
鹿児島県
鹿児島県の日本100名城は、薩摩藩の藩庁だった鹿児島城のみ。
鹿児島藩(薩摩藩)は、地方支配の方法として旧来の外城制(とじょうせい=城下に武士を集めず、外城と呼ばれる地域の拠点を残す)という独特の支配構造を残存しましたが、鹿児島はの城下は外城制の適用外で、鹿児島藩庁の直轄支配になっていました。
鹿児島城
明治維新を迎えるまで島津氏12代の居城
所在地:鹿児島県鹿児島市城山町7-2
旧国名:薩摩国(さつまのくに)
築城年:慶長7年(1602年)、初代薩摩藩主・島津家久(しまづいえひさ)が築城
内容:「人をもって城となす」の方針から天守は築かれず、城山(上山城/うえやまじょう)を天然の要塞としてその麓に本丸御殿を築いただけの小規模な城
備考:鹿児島県の史跡
沖縄県
沖縄県で日本100名城に選定されているのは3城で、いずれも世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成遺産。
琉球王国統一後に王宮、首里王府として機能した首里城、そして三山時代の北山王(ほくざんおう)の居城、今帰仁城(なきじんじょう・なきじんぐすく)、尚泰久王(しょうたいきゅうおう)時代に護佐丸(ごさまる)が拡充整備した中城城(なかぐすくぐすく・なかぐすくじょう)です。
今帰仁城(なきじんじょう・なきじんぐすく)
三山鼎立時代、北山王(ほくざんおう)3代に渡る城跡
所在地:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874
旧国名:琉球王国
築城年:13世紀頃、湧川王子(英祖王の次男)の築城
内容:標高約100mの琉球石灰岩上に建つグスクは、主郭を中心に7つの郭(くるわ=曲輪)で形成され、沖縄では首里城に次ぐ規模を誇り、北山王の勢力の強さをうかがわせます
沖縄を代表する城跡(グスク)のひとつで、高さ2mほどの石垣が延長数百mにわたって続く外郭、中国から伝わった建築様式の主郭(本丸跡)、祭事の場である大庭(ウーミャ)、馬の調教をした広大な大隈(ウーシミ)、火の神を祀る古宇利殿内などが現存
備考:世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」、国の史跡
中城城(なかぐすくぐすく・なかぐすくじょう)
沖縄戦の戦禍を免れ沖縄県内でもっとも原形をとどめたグスク
所在地:沖縄県中頭郡北中城村大城512
旧国名:琉球王国
築城年:尚泰久王(しょうたいきゅうおう)時代(1454年〜1460年)、護佐丸(ごさまる)が拡充した城
内容:中城湾(なかぐすくわん)を見下ろす標高150mの琉球石灰岩の台地上に築かれた6つの城郭からなる多郭式の城
中央部の最高所に位置するのが一の郭で、正殿(せいでん)があった場所
二の郭はウナジャラグスクと呼ばれ、女性専用の郭だったと想像されています
沖縄に上陸したペリー提督も見学
備考:世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」、国の史跡
首里城
琉球王国の中心だった王宮
所在地:沖縄県那覇市首里金城町1-2
旧国名:琉球王国
築城年:1429年、尚巴志(しょうはし)、三山(さんざん)を統一し、琉球王国が成立、その居城となったのが首里城
内容:首里城は王族が居住する「王宮」であるとともに、行政機関である「首里王府」にもなっていました
備考:世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」、国の史跡
日本100名城 九州・沖縄16城 | |
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