五百羅漢は、一切の煩悩(ぼんのう)を払って修行の最高位に達した仏弟子500人ことで、その功徳を授かれるのが五百羅漢像です。日本三大五百羅漢に数えられるのは、徳蔵寺(栃木県足利市)、喜多院(埼玉県川越市)、建長寺(神奈川県鎌倉市)、そして羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓町)です。
日本三大五百羅漢、選定の基準を探る
日本三大五百羅漢に関しては、徳蔵寺(栃木県足利市)、喜多院(埼玉県川越市)、建長寺(神奈川県鎌倉市)、そして羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓町)が候補ですが、造営の年代からすれば、三大五百羅漢から外れることのある羅漢寺は、南北朝時代の造営で、国の重要文化財と歴史的文化的な価値も大で、三大五百羅漢筆頭ともいえる存在。
岩手県遠野市の五百羅漢は天明9年(1782年)頃に造立と、徳蔵寺よりも古いのですが、現存数は380体と500には足りないのが難点で、三大にノミネートされていません。
東海道の名刹、清見寺(静岡県静岡市清水区)の五百羅漢は、島崎藤村の『桜の実の熟する時』に登場する五百羅漢で、寛政5年(1793年)に完成していますが、こちらもノミネートから外れています。
石川啄木、宮沢賢治ゆかりの報恩寺(岩手県盛岡市)には、享保16年(1731年)から4年を費やし、京で9人の仏師が制作した500体の羅漢が安置されていますが、こちらも三大には数えられていないので、現在「日本三大五百羅漢」と通称されている五百羅漢は、年代だけが基準ではないことがわかります。
「日本三大五百羅漢」候補地4ヶ所に共通することを、あえて探せば、その文化的な背景でしょうか。
河川舟運の興隆を背景にした徳蔵寺、商都として発展した川越の財力を背景にした喜多院、鎌倉五山第一位で徳川将軍家との密なる関係をバックボーンにした建長寺、そして耶馬溪(やばけい)の羅漢寺とくれば、やはり三大にふさわしい価値があります。
日本三大五百羅漢、候補は4ヶ所
徳蔵寺|栃木県
所在地:栃木県足利市猿田町9-3
建立年:文化10年(1813年)
総数:513体
寄進者:渡良瀬川舟運の隆盛を背景に、北猿田河岸の河岸問屋「萬屋」の11代・吉右衛門が中心となり5軒の問屋で奉納
内容:ピラミッド型の最上段に、阿弥陀如来坐像1体、観世音菩薩立像1体、勢至菩薩立像1体を配し、その下に像高28cmの五百羅漢像500体を並べています。
段の角には釈迦の弟子の立像10体を配置
喜多院|埼玉県
所在地:埼玉県川越市小仙波町1-20-1
建立年:天明2年(1782年)〜文政8年(1825年)
総数:538体
寄進者:川越北田島の志誠(しじょう=内田善右ヱ門)と蔦右衛門の発願、志誠大徳は二大士、十六像をはじめ、40尊を造って4年目に病に倒れ、喜多院の学僧であった慶厳、澄音、祐賢がその遺志を受け継いで、浄財を集め、40余年の歳月を費やして完成
内容:中央高座の大仏(おおぼとけ)に釈迦如来、その脇侍(わきじ)に獅子に乗った文殊菩薩(もんじゅぼさつ)と象に乗った普腎菩薩(ふげんぼさつ)、左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩が鎮座
当時の川越は、商都として発展(武蔵国屈指の大都会、現在の埼玉県では最大の人口でした)、さらに喜多院は将軍家とも密接なつながりがあったので、商人、武家の寄付もあったと推測できます
建長寺|神奈川県
所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内8
建立年:文久3年(1863年)
寄進者:江戸蔵前の札差(ふださし=蔵米を取り扱い、蔵米を担保にして金融業を行なって蓄財)・伊勢屋嘉右衛門の発願
内容:三門(三解脱門)の2階に、釈迦如来を中心に、銅造五百羅漢、十六羅漢を祀り、三門をくぐることで3つの煩悩、貪欲(とんよく=貪り・むさぼり)、瞋恚(しんに=怒り)、愚知(ぐち=愚かさ)がなくなり、心が清浄になるというご利益が
安永3年(1774年)には江戸に疫病が流行り、翌安永4年も春から時疫(じえき=疫病)が蔓延し、数万人が死んだという世情不安が背景に
羅漢寺|大分県
所在地:大分県中津市本耶馬溪町跡田1501
建立年:南北朝時代
総数:3700体(石仏合計)/国の重要文化財
内容:無漏窟(むろくつ)に安置されている五百羅漢(ごひゃくらかん)は、昭覚が、延元4年(1339年)に中国から来日して庵を結んだ僧・逆流建順(げきりゅうけんじゅん)とともに造営
日本三大五百羅漢とは!? | |
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