松山市野球歴史資料館 の・ボールミュージアム

松山市野球歴史資料館 の・ボールミュージアム

愛媛県松山市市坪西町、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)内にある野球資料館が松山市野球歴史資料館の・ボールミュージアム。その名は正岡子規の雅号「の・ぼうる」(野球)に由来しています。子規の本名は升(のぼる)で、これに引っ掛けてベースボールをの・ぼうると洒落たのです。

名称は正岡子規の雅号「野球」(のぼーる)に由来

松山市野球歴史資料館 の・ボールミュージアム

松山市野球歴史資料館の・ボールミュージアムの館内では、プロ野球展示コーナー(東側)、アマチュア野球展示コーナー(西側)の2コーナーに分かれ、プロ野球展示コーナーではイチロー選手のグラブ、松井秀喜選手の手形、松山出身の西本聖投手の沢村賞トロフィーなどが展示されています。

アマチュア野球展示コーナーでは、正岡子規が松山の俳人・河東碧梧桐に野球を伝えたとされる明治22年から最近の全国高校野球選手権大会まで、野球王国・愛媛の歴史をたどることができます。

正岡子規は、明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、熱中したといわれ、明治22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを伝授しているのです。
明治23年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」(のぼーる)が初見し、明治中期の野球導入期の功績から、正岡子規は平成14年に野球殿堂入りしています。
正岡子規は、バッター、ランナー、フォアボール、ストレート、フライボール、ショートストップをそれぞれ打者、走者、四球、直球、飛球、短遮と翻訳しています。
この「野球」(のぼーる)はあくまで雅号ということで、Baseball(ベースボール)を野球(やきゅう)と最初に訳したのは、中馬庚(ちゅうまんかなえ)で、明治27年のこととされています。
ショートストップを遊撃手と訳したのも中馬庚で、やはり野球殿堂入り。

松山市野球歴史資料館 の・ボールミュージアム
名称 松山市野球歴史資料館 の・ボールミュージアム/まつやましやきゅうれきししりょうかん の・ぼーるみゅーじあむ
所在地 愛媛県松山市市坪西町625-1坊っちゃんスタジアム内
関連HP 松山市スポーツ協会公式ホームページ
電車・バスで JR市坪駅から徒歩1分
ドライブで 松山自動車道松山ICから約4km
駐車場 松山中央公園駐車場(600台/無料、プロ野球開催時には有料の場合あり)を利用
問い合わせ 松山市野球歴史資料館 の・ボールミュージアム TEL:089-968-6660
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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