正岡子規旧邸跡

正岡子規旧邸跡

愛媛県松山市にある明治の俳人・歌人、正岡子規の生い立ち時代の家跡が正岡子規旧邸跡。正岡子規は慶応3年9月17日(1867年10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に生まれ、2歳の時に中ノ川通りに移り、17歳で上京するまでこの地で暮らしています。

正岡子規が少年時代を過ごした地

中ノ川(石手川の支流)は、正岡子規が暮らした時代には川幅が2mほどあり、正岡子規の住まいは、南側の生け垣がこの中ノ川に臨んでいました。
中ノ川通りの中央の緑地帯に正岡子規旧邸跡の碑が立っています。

正岡子規は、この家から末広小学校、勝山学校に通い、明治13年、旧制松山中学(現・松山東高等学校)に入学。

明治16年、旧制松山中学を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高等学校)に入学しています。
司馬遼太郎『坂の上の雲』の主人公のひとりで、日本海海戦出撃時の報告電報の一節「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の名文を作詞した秋山眞之(あきやまさねゆき/NHKドラマ『坂の上の雲』では本木雅弘が熱演)とは、旧制松山中学、共立学校で同級だったので、『坂の上の雲』ゆかりの地ということに。

松山市には、「松山市立子規記念博物館」、「松山市野球歴史資料館の・ボールミュージアム」(坊っちゃんスタジアム内)、「坂の上の雲ミュージアム」など正岡子規を学ぶミュージアム、三津きせんのりば跡の子規句碑などの句碑もあるので、あわせて見学を。
また、子規堂にはこの湊町の旧邸が復元され、正岡子規の少年時代の暮らしを知ることができます。

正岡子規旧邸跡
名称 正岡子規旧邸跡/まさおかしききゅうていあと
所在地 愛媛県松山市湊町
電車・バスで 伊予鉄道伊予市駅から徒步8分
ドライブで 松山自動車道松山ICから約6km
問い合わせ 松山観光コンベンション協会 TEL:089-935-7511
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
坂の上の雲ミュージアム

坂の上の雲ミュージアム

愛媛県松山市、松山城を中心に松山全体をフィールドミュージアムとする司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』を軸とした構想の中核を担う博物館が坂の上の雲ミュージアム。秋山好古(あきやまよしふる)・秋山眞之(あきやまさねゆき)兄弟、俳人・正岡子規の3人の

松山市野球歴史資料館 の・ボールミュージアム

松山市野球歴史資料館 の・ボールミュージアム

愛媛県松山市市坪西町、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)内にある野球資料館が松山市野球歴史資料館の・ボールミュージアム。その名は正岡子規の雅号「の・ぼうる」(野球)に由来しています。子規の本名は升(のぼる)で、これに引っ掛けてベース

松山市立子規記念博物館

松山市立子規記念博物館

愛媛県松山市道後公園にある正岡子規を顕彰するミュージアムが松山市立子規記念博物館。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で秋山兄弟として主人公のひとりとして描かれる正岡子規。道後公園の一角にあり、松山が生んだ正岡子規を通して松山の伝統文化や文学を紹

子規堂

子規堂

松山が生んだ近代俳句の祖、正岡子規。子規堂は子規が17歳で上京するまで住んでいた湊町4丁目の旧宅を子規の菩提寺・正宗寺(しょうじゅうじ/愛媛県松山市末広町)境内に間取りを模して復元したもの。堂内には子規の子供時代の勉強部屋を再現したコーナー

三津きせんのりば碑・正岡子規句碑

三津きせんのりば碑・正岡子規句碑

愛媛県松山市三津にある、明治時代、松山、そして四国の玄関港として栄えた三津浜港にあるのが三津きせんのりば碑・子規句碑。当時の三津浜港は水深が浅かったため、沖に停泊する汽船まで艀(はしけ)で行き来しましたが、その艀が発着したのが三津きせんのり

正岡子規生誕の地

正岡子規生誕の地

俳人、歌人の正岡子規(まさおかしき)は、慶応3年9月17日(1867年10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)で、松山藩士(御馬廻加番)の正岡常尚と八重の間に誕生。幼名は処之助で、4〜5歳の頃、「升」に改めています。生

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ